時にはシリーズ第一章
 
 
 
 

時には正義の様に・・・

 

〜本当の正義や本当の勇気、そして本当の愛ってあなたが思っている様な、

そんなに見かけは強かったり格好良かったり、そして美しいモノばかりじゃ無い様な気がします〜

著者 斉藤和彦

〜今もしもあの頃信じていた正義の味方が目の前に現れたとしたら

僕たちは救ってもらえる方になのだろうか?それとも・・・〜


松田「渡辺、本当は誰かの為にしたんじゃないか?」

正義「・・・・・・」

松田「そうだよな,言える位なら初めから言っているよな。
けどな,俺は渡辺のそう言う仲間を大切に思う気持ちが好きなんだ」

正義「松田先生。今はっきり言える事は俺は上田先生を殴った事を後悔していません」

松田「そっか」

渡辺正義(わたなべせいぎ)そしてその正義の担任でも無ければ学年主任でもない松田道郎,彼は週にたった数回しか授業が無い美術の先生。そんな二人の会話はそれ程長く,そして数多いものでは無かったが,その一つ一つにはこの短かった半年間の戦いの苦しさ,そして辛さ,そんなものを思い出させるほど重いものだった。

今日は十月二十日。正義と同じ年頃の生徒ならまだ2学期の中盤だろう。それも高校生活で言うならば,高校一年生の2学期。まだ高校生活の始まりとも言える十月二十日。しかしこの校長室を出てすぐの暗い廊下に佇んでいる男、渡辺正義にとってその十月二十日と言う日は,高校生活最後の日だった。

この学校創立以来始めての事だった。この学校から強制退学者が出たのは。勿論事実上退学者が出た事は何度もあった。しかしそれはすべて名目上自主退学と言う事になっている。その理由の一つには学校側の強い要望があった。理由はいたって単純な事だ。要するにイメージが悪いのだろう強制退学と言うのは。学校なんていつだって中身よりも外見を気にするものなのだ。そして自主退学のもう一つの大きな理由は,その生徒のその後の進学,就職に大きな影響がある事だった。

松田「本当に強制退学で良かったのか?今ならまだ・・・」と言いかけてやめた。それは正義自身を理解しての事だった。

正義「本当にこれでいいんです。先生,最後に一つ聞いてもいいですか?」

松田「んっ何だ?」

正義「俺は負け犬なんかじゃ無いですよね」

松田「ああ」

松田はそう答えるのが精一杯だった。それにはもし,もしも自分にもっと力があったのなら,この生徒を辞めさせないで済んだのかもしれないと言う自分に対する悔しさから来るものであった。しかし一人の美術教師に一体何ができたと言うのだろう。所詮学校教育なんて人間一人の力ではどうする事も出来ないものなのだ。

正義「先生。本当にどうもありがとうございました」

そう言いながら正義は松田に一例した。そして正義はこの暗い廊下を一人で,たった一人で歩き出した。もう松田も声をかけてやる事が出来ないくらい胸が苦しかった。
なんでこんな生徒が辞めさせられなくてはならないんだ!!時代が悪いのか?それとも学校なのか?それとも利己的主義の大人達?しかし今更それを考えても始まらない。今はただ,とにかく今は渡辺正義を,正義を見てやる事だ。この暗い廊下から明るい昇降口にたった一人で歩いて行く正義を。その後ろ姿からは彼が泣いているのか,それとも笑っているのか松田には判断出来なかった。しかしハッキリわかる事は,正義は胸を張って歩いている事だった。その姿は何よりも力強く、そして誰よりも勇ましくそれはまるでこの学校を追い出される者の姿ではなく、この規律、従順、校則そんな見えない鉄格子に囲まれた暗い世界から,明るい自由の世界へ旅立つ男。まさに楽園に向かう天使そのものの様だった。

そして松田はその姿を見つめながら,俺は一生この男を忘れてはいけない。そして二度とこの様な男に,この暗い廊下を歩かしてはいけないんだと心に強く思った。***

そして正義が去って行った後にこの学校に残されたモノは、幾つかの問題点と,そして少数ではあるが数人の生徒と,そして一人の美術教師に決して負けないと言う強い心を残だけが残った。そして正義が居なくなって数分後に,上田も退院した事もあって,会議室では職員会議が行われた。

話の内容は勿論今回の渡辺正義の件であった。

校長「本当にこれで良かったんですかね」

校長は少しためらいがちに先生方に尋ねた。

斎藤「これで良かったんですかねと言いますと,渡辺正義の処分の事ですか?」

そう聞き返したのは音楽教師の斎藤雅子だった。彼女はまだ若いという事もあり,数少ない今の学校教育に不信を持っている教師の一人だった。

校長「ええ渡辺正義の処分の件です」

斎藤「私も実は・・・」

寺西「いいんじゃないですか、本人から自主退学の件を断って来たんですから。それにこの件で救急車とパトカーまで来て,それを大半の生徒が見ていたんですよ。それなのにこれで無期停学位じゃ他の生徒に示しが付きませんよ」

教頭の寺西が,斎藤の意見を遮って言った。そしてそんな教頭の寺西の意見にはいつだって、示しだとか見せしめだとかそういった類の言葉が混ざっていた。

校長「確かに事の大きさから考えて,退学処分と言うのはいたしかた無いものだと思います。しかしですな,いまいちこの件の真相が見えてこないんです。一体何故渡辺正義は上田先生を殴ったのか,本人に聞いても『ただ僕はもうこれ以上大切な物を失いたくなかったんです』としか言わないですし、上田先生,大変な怪我をされている所申し訳ないのですが,本当に身に覚えは無いんですよね?」

上田「はあ,私にはさっぱり」

担任の上田は退院したとはいえ,まだ事件の大きさを思い出させるほど顔や腕には痛々しい程の包帯やバンソウコウがあった。けれどその包帯の下には、怪我と同じくらいの限りない嘘としたたかさが隠れていた。

大山「いや,それはあれですよ,あれに決まってますよ。今の高校生特有の被害妄想の肥大とか言う奴ですか。ほらよくあるでしょ。散々好き勝手にやってるくせして自由が欲しいとか,人を外見で判断するな!とか,要するに学校や大人に対しての不満を衝動的に暴力と言う形で解消しただけの事ですよ。よくある事じゃないですか。あの年頃の子供には」

口を割って入って来たのは,学年主任の大山幸雄。彼もまた寺西,上田同様,利己的主義者の一人だった。しかしそれに対して斎藤が疑問を投げ返してきた。

斎藤「それは違うんじゃ無いかと私は思います。何故なら前に私の授業中にこんな事があったんです。それは私があまりにも格好がひどい生徒が居たんで,それを注意した事があったんです」

***

斎藤「北川!何ですかその格好は。いくら暑いからといってそんなにボタンを外していたらみっともないですよ。それじゃまるでやくざの様じゃないですか」

北川「あっひで〜。おいみんな聞いたかよ。この先公,自分の教え子に向かってやくざだってよ。なあ先生よ,人を外見で判断しちゃいけないんじゃないの?」

北川は今年留年したという事もあって,初めから教師を恨んでいた。そして特にこの音楽の女教師斎藤には,去年いい成績をもらっていなかったと言う事もあって,かっこうの恨みの標的になっていた。

斎藤「北川。君は何度言ったらわかるんです?ちゃんと校則にみだらな格好をしてはいけない事と書いてあるでしょ!!」

北川「まったく校則,校則っていちいちうるせんだよ。一体何なんだよその校則ってのは。そんなモノで俺たちを縛り付けようたってそうはいかねえんだよ。俺がどんな格好しようが,俺の自由じゃねえか!校則なんてのはなあ,そもそも破る為にあんだよ!なあみんな俺たちは自由だよな」

そんな北川の声にエールを送るように、クラスの半数近くの生徒が一斉にそうだ!そうだ!俺たちは自由だ!と声を揃えた。こうなってしまうとまだ経験の浅い女教師一人の力ではもうどうにもならない。斎藤は今にも泣き出しそうになっていた。そんな時だった、正義が助けてくれたのは。

正義「うるせんだよ!!」

そう言って正義は立ち上がった。そして正義のそんな言葉に,自由!自由!と叫んでいた生徒達は一斉に黙った。

正義「何が自由だよ。何が自由なんだよ。お前等の自由って一体なんなんだよ。なあ,お前等の自由って,こんなちんぴらみてえな格好する事なのかよ。お前等人を外見で判断するなって言うけど,お前等の方なんじゃないか?人を外見でしか判断出来ねえのは。お前等言ったよな,俺が真面目な格好しはじめて来た時、なんかダサく成ったとか,シャバくさく成ったとか。なあ、そんなんで一体俺の何がわかったて言うんだ!おめえらの方こそ人を外見で判断してんじゃねえよ!」

正義の意見は正論だった。しかしそれが正しければ正しい程,北川達には曲論の様に聞こえるモノなのだ。

北川「またかよ。ああお前の言っている事はいつだって正しいよ。けどお前だっていつも先公に逆らってんじゃねえかよ!いつも自由,自由って言ってんじゃねえかよ!こんな時ばっか格好付けてんじゃねえよ!!」

正義は決して格好付けていた訳なんかでは無かった。ただ,ただ純粋にそう思っていただけの事だった。

正義「俺は確かに自由を求めている。けど、けどな、お前達の言うその自由と俺の言う自由はきっと違う気がするんだ・・・」

***

斎藤「勿論これが全てだとは思いません。私に対しても時に反抗的に成る事もありましたし、言葉遣いも決して良いとは言えなかったです。しかしそれにはそれなりの理由がしっかりありました。それに普段の授業態度など総合的に見ても、私には彼がただ単に被害妄想で衝動的にこんな事をしたと思えないです。きっと彼がそうしたには何か理由の様なものが・・・」

斎藤の言葉は遠回しな言い方ではあったが,ハッキリ言ってしまえば要するに殴られた上田自身にも問題があったんじゃないかと言う事だった。上田としても若い女教師にこんな事を言われてしまえば黙っている訳にはいかなかった。

上田「じゃあなんですか?斎藤先生は渡辺が私を殴ったのは,私自身にも問題があったと言いたいんですか?冗談言っちゃこまるな。私は被害者ですなんですよ。斎藤先生は渡辺の本当の悪さ知らないからそんな事言えるんですよ!」

斉藤も会社で言えば上司にあたる上田にそこまで言われると言い返す言葉を失う。

斎藤「私は別に・・」

寺西「まあまあ上田先生もそう剥きにならないで,斎藤先生もまだ若いからそう思った事だけなんですよね。斎藤先生,私達が言いたいのはですね,ほら斎藤先生も学生の頃経験ないですか?あの頃の歳の子供は言っている事がコロコロ変わるんですよ。特に渡辺の場合は、中学生の時から随分先生泣かせの生徒だったって内申書に書いてあったじゃないですか。だから今回もただ日頃のムヤムヤを衝動的に教師に暴力と言う形で解消しただけの事何ですよ。そうですよね校長」

寺西は校長に同意を求めた。しかし校長も斎藤同様,何かつかみ所の無いわだかまりがあった。

校長「本当にそうなんですかね。実を言うと私も斎藤先生と同じで,彼がそんな事であんな事をしたとは思えないんですよ」

校長は正義の目を見た時からだった。正直言って今までいろんな生徒を見てきたけれど,今まで見てきたどの生徒とも明らかに違うモノがそこにはあった。しかしそんな校長の煮え切らない態度に苛立ったのか,寺西は校長を叱る様に言った。

寺西「校長まで何を言い出すんですか!いいですか,奴は仮にも教師に暴力をふるったんですよ。理由はどうであれこれは立派な犯罪なんです!今は仮処分で保護観察付きの身ですが,もしかすると少年院に入るかもしれないんですよ!。そうなればこんな時代だ、マスコミだって黙っていないでしょう。なんてたって教師に全治二ケ月の重傷を負わしたんですからね。その時校長の貴方は一体どの様にお答えするつもりなんですか?まさかこの問題は学校側に責任があったとでも答えるつもりなんですか?学校の教育方針に問題があったと!。もしそな事に成れば校長,貴方が辞職なされるだけの問題じゃ済まないんですよ!この学校が今まで地道に積み上げてきた地位だって保てやしない。いやそれどころか、そうなれば我々職員だって肩身の狭い思いをしなくてはいけないんです。下手をすればもうすでにマスコミは動き出しているかもしれませんよ。なんせ救急車どころかパトカーまで出動したんですからね。そんな大事な時にまだ右も左もわからない斎藤先生ならともかく,校長の貴方までそんな気持ちでどうするんですか!。とにかくいいですか,これは単なる,渡辺正義と言ういち生徒が自分勝手に勘違いをして引き起こした,単なる傷害事件なんです。単なる

そうなのだ。確かにこれは教頭の言う様に,ただの単なる傷害事件なのだ。今までだって教師に暴力をふるった生徒は居る。そしてそんな生徒達はみんな当り前の様に退学していった。しかし何故私は今回だけはこんなにこだわっているのだろうか?あの渡辺正義と言う生徒の目を見たからか?一体私はあの生徒の目の中に何が見えたのだろう?きっと何か大切なモノが見えたに違いない。しかし教頭の言う様にこの事件をこれ以上大きくする事はこの学校の関係者,そして私を信じているこの職員達に迷惑がかかってしまう。正直言って自分自身も家族の居る身として,今学校を辞めさせられては困るのも悲しいが現実だ。校長は少し間を置いて静かに言った。

校長「わかりました。今教頭先生の言われた通り,これは単なる傷害事件の様です。ですからこれ以上この問題を大きくする必要は無いようですね。いやあ本当に私のハッキリしない態度でみなさんに迷惑を掛けましたが、一応そう言う事なので各先生方も大変だとは思いますが,これ以上生徒達がこの問題を騒ぎ立てない様に何卒指導の方をお願いします。それでは,そう言事でこの件の話し合いを終わらせた・」

校長がそうが言いかけた時だった。正義?いや違う松田だ。誰もが一瞬そこに渡辺正義が座って居るかの様に見えた。しかしそこに居たのは、あの時の正義と同じ目をした松田道郎だった。

松田「何がこれで終わるんですか!一体何が解決したと言うんですか!。渡辺正義の処分が退学なのは致し方ない事だと思います。しかし何故彼がこんな事をしたのか?一体何故彼がこんな事をしなけば成らなかったのか?何ひとつ解決なんてしてないじゃないですか!」

こんな事は初めての事だった。今までの松田はいつだって疑問を感じてはいたものの,それを言える勇気が無かった。ましてやこの様な場でこんな言い方をするなんて半年前では想像もつかない事だっただろう。そして当然こんな事を言えば自分の立場が悪く成る事は松田自身が一番わかっていた。しかし今の松田にとって自分の立場なんてどうでも良かった。何故なら、そう彼の心の中にはもうこれ以上自分を偽れない理由があったのだから。

寺西「松田先生,急に何を言うつもりなんですか?もうこの件はですね,校長がおっしゃった通り解決したんです」

教頭は松田をなだめる様に言った。

松田「一体何が解決したと言うんですか!あなた方は先から自分達の都合のいい様にしか考えていないじゃ無いですか!どうして渡辺正義の気持ちを理解してあげようとしないんですか?」

寺西「と言いますと松田先生,まさかとは思いますが貴方は渡辺の事を理解していると、そう言いたいのですか?」

松田「ええ,少なくともあなた方よりは」

寺西「いやあ,これは面白い。担任の上田先生ならともかく,なんで松田先生貴方が渡辺正義の事を理解されているんですか?こんな言い方すると失礼ですけど、貴方はたかだか週に2〜3時間しか授業のない美術の先生ですよね?」

その言い方は明らかに人を馬鹿にした言い方だった。しかし松田はムッともせずに冷静に話し出した。

松田「彼を理解するのに時間なんて関係ありません。大切なのは,彼に心を開けるかどうかです。正直言って私も初めの頃は彼は何処にでも居るただの不良少年としか見えませんでした。しかし一ケ月位たった頃だったでしょうか,私は授業で自由画を生徒達に描かせた事があったのです。その時彼が描いた絵が一体どんな物だったかわかりますか?」

寺西「さあ」

松田は興味すら感じない寺西を無視して話を続けた。

松田「彼が描いた絵は道端に一人の少年が傷付いて倒れている絵だったんですよ。それも泥だらけで汚らしい格好をした少年が。そしてその少年は必死に手を伸ばしているんですよ,何かにしがみつこうと必死にね。そしてその周りにはキチンとした格好をした大人達が居るのに,みんな素知らぬ顔をして歩いているんです。誰一人助けようとはせずに,みんな気付かない振りをしているんです。そしてまだそれだけならともかく,ある大人はその少年の足を踏み,ある大人はその少年の腕を踏み,そしてある大人はその少年の頭を踏み潰しているんです。私はその絵を見た時,初めはこの傷付いた少年は,渡辺が自分自身を描いたのかと思いました。そして誰かに助けを求めがっているんじゃないかと。しかし渡辺は違うと言ったんです。そしてこの絵にはさらにまだ続きがあると。二枚目の絵はこうでした。それは傷付いた少年が必死に伸ばしていた手をしっかり,そして優しく握る男が現れるんですよ。その男は決して見た目は人の良さそうな人には見えないんですが、それでもその男は少年に優しく手を差しのべているんです。ここまでなら私もすぐにその絵を理解できました。人は外見では判断出来ないんだと。そしてこの少年は心優しい男に助けられてハッピーエンドに成れたと。しかし渡辺の言いたかった事はそんな単純な事では無かった。もっともっと奥が深かったんです。それは三枚目,そう最後の一枚を見た時,それは私に衝撃をもたらせました。最後の絵の内容はその傷付いた少年,そしてその少年を助けようとした男を周りの大人達はさらに踏み潰そうとしていたんです。蹴ろうとしている者もいました。唾を吐きかける者もいました。私はその絵を見た時に背筋がゾーとしました。その絵は決して空想の世界の地獄絵なんかじゃないんです。それは正義の目から見たこの現実なんですよ。一体この中にその絵を笑える人はいますか?否定出来る人はいますか?」

勿論笑う者もいなけらば否定する者も居ない。大半の教師は興味すら感じていなかった。

寺西「松田先生。その絵がどんな物だったか知りませんが,それはこの問題とは一切関係無いんじゃないですか?」

松田「それじゃ聞きますが,その絵の題名が何だったのかわかりますか?」

寺西「さあ,何なんです?」

松田「その絵の題名はですね。〜貴方は自分の手を汚してまで,汚いモノを触る事が出来ますか?〜そう言う題名なんですよ。この意味わかりますか?汚いモノと言うのは人が触れたくない事や,関わり合いたくない事です。そして自分の手と言うのは,今あなた方が必死に守ろうとしているその立場やプライド、そして名誉なんですよ。私は一体その絵に対してなんと言ってあげればいいんですか?正直言って私はその時何も答えてあげられませんでした。だってそうですよね、今まで我々は自分の立場を守る為だけに、ただレールからはみ出したと言う理由だけで平気で生徒を退学させて来たんですよ。臭いモノを綺麗にしようとはせず,ただフタをして来ただけなんですよ。そして今もまた同じ過ちを繰り返そうとしている。しかし正義は,そんな私に笑顔で『俺は平気で触れるよって』校長!私は,私はもう・・・」

松田は拳を握り締め,下を向いていた。

寺西「松田先生。力説の途中申し訳ないのですが,先ほども言った様に,それはこの問題とは関係ないんじゃ」

松田「関係ないですって、関係ないですって!何が関係ないんですか!!教頭先生,貴方は何もわかっていない!渡辺はですね,きっと何か大切なモノ,もしくは誰かの為に今回の事件を起こしたんです。自分を犠牲にまでして!」

寺西「ちょっと待って下さい、それはあくまでも松田先生、貴方の仮説に過ぎない。それに証拠が無いじゃないですか、証拠が。いいですか、これ以上あまり根拠が無いことを言う様だと今度は貴方の立場が危なくなりまぞ!」

松田そんな教頭の言葉に平然と言った。

松田「立場ですか、ええそれは構いません。それに証拠はですね、彼が自主退学を拒否した事です」

教頭の寺西を初め、各教師達は顔を見合わせた。そんな中、松田は話を続けた。

松田「何故彼が自主退学を拒否し、決して条件の良くない強制退学を選んだかわかりますか?彼は口に出しては言わないけれど、きっと自分は正しい、もしくは自分は間違っていないと言う強い意志がきっとあったからなんです」

そんな松田の言葉に松田の目も見ないで学年主任の大山は言った

大山「そんなの格好付けてただけなんじゃないんですかね?教師を殴ってしまった手前そうしなければプライドが無くなるとでも思って。案外今頃後悔してたりして」

大山のその言い方に松田はムッとした。しかしそんな言い方にムッとしたのは決して一人では無かった。

斎藤「それは違うと思います!」

そう言ったの斎藤だった。

斎藤「彼は大山先生がおっしゃった様なそんな安いプライドなんて持っていないと思います。これも私の授業中にあった事なんですが,彼の勘違いでちょっとした事件と言うか揉め事があったんです。勿論その後,それは彼の勘違いと言う事がわかりました。そしたら彼はどうしたと思います?突然その場でみんなに頭を下げて謝り出したんです。私は正直言って驚きました。あの年頃って感受性が強いから有難うだって素直に言えないんです。それも謝るなんてなおさら。私だって今は教師をしていますが、今思えばあの頃の私なんて何ひとつ素直になんて出来なかったと思います。しかし渡辺は違うんです。すみませんでした,すみませんでしたって謝ったんです。私は先ほど松田先生が言っていた絵の事凄く良く理解できます。きっと彼ならそんな絵を描いても不思議は無いなって。だから私も松田先生同様,彼にはきっともっと深い何かがあったと思います」

大山「じゃあ一体何なんですか,その何かって!さっきから強い意志があるだとか、深いものがあるだとか,それがわからなければしょうがないんですよ!」

そんな中、松田は上田の顔を見てポツリと言った。

松田「それは殴られた本人が一番ご存じなんじゃないですか?」

上田「何だと!」

上田の怒りは頂点に達していた。けれどそれを割って入ったのは最高責任者の校長だった。

校長「まあまあ,松田先生がおっしゃりたい事は大体わかりました。しかしハッキリした証拠が無いのに,上田先生に問題があったと決めつけるのはどうかと思います。しかしこの問題はやはりこのまま終わらせられないでしょう。そこで私の考えなのですが,私がもう一度彼に逢って本当の事を聞いてきます。そしてもしも彼が本当の事を話したのなら,もう一度会議を開くという事でどうでしょうか?」

松田「私はそれで結構です」

松田は心に思った。なあ正義,俺がお前の為にしてやれる事は,今はこれが精一杯なんだと・・・。

***

正義は校舎を出て校門の所から,いつもの見慣れた校舎を振り返った。正義は正直言って三年間この学校に居たかった。しかしそんなはかない夢も今は消えてしまった。あの戦い続けた日々と共に。確かに失ったモノも多かった。けれど得たモノもあった。分かり合える仲間が出来た。自分を理解してくれた先生も出来た。しかしそんなやっと出合えた仲間を残して、今正義はこの場所を断たなければならなかった。

もう振り返る事も出来やしない,もう戻る事も出来やしない,自分で決めた事なのだから。

正義は胸を張った。そして大きく頭を下げた。その姿はどの校舎のどの窓からも見えやしない,そして見る者も誰ひとりとして居なかった。それでも正義は礼をした。その間正義の後ろを車が何台か通り過ぎて行っても、例え見知らぬ人達がジロジロ見て指を差して横を通り過ぎても、正義は礼をし続けた。それは決して格好いいものでは無かった。ぶざまの様にも見えた。そしてそれ以上に悲しくも見えた。それでも正義は礼をし続けた。何故ならそれは正義にとって、やっと分かり合えた仲間に対する気持ちだったのだから。正義は礼をし終えるとクルッと反回転し、駅へと向かう道を歩き出した。そしてその時、待ち伏せでもしていたのだろうか、電柱の陰から正義の名を呼ぶ声が聞こえた。

衣鶴「オッス,正義どうだった?」

長いスカートに腕まくりと言う,ちょっと不良っぽい格好の彼女。磯崎衣鶴[いそざきいずる]彼女もまた正義と分かり合えた仲間の一人だった。

正義「なんだ衣鶴か。どうだったかなんて分かってるんだろ。見ての通りだよ」

衣鶴「やっぱり退学なのか?彼奴等汚いんだよ。正義の事何も分かってねえのに」

正義「しょうがねえよ。先生殴っちまったんだからな」

衣鶴「けどそれは上田が悪いからじゃん。それなのに何で正義が学校辞めなきゃなんないんだよ。それで上田はどうなるんだ。当然あいつも学校クビになるんだろ?」

正義「さあな」

衣鶴「さあなって,あんた本当の事言わなかったの?」

正義は黙っていた。衣鶴も言ってからすぐに気が付いた。本当の事を唯一知っている二人にとってこの事は,言わない,言えないと言うのが暗黙の了解だった。

衣鶴「あっごめん。正義ごめんね。そうだよね,言えないんだよね。もしあんな事が明るみになったら一番傷付くのは幸子自身なんだもんね。そしたら幸子,今度こそ一生心閉ざしたまんまになっちゃうもんね」

正義「なあ衣鶴,俺は誰かの為にしたんじゃないんだ。俺は俺が俺である為にした事なんだ。もし仮にそれが誰かの為であったにしろ,俺がしてやれる事はここまでなんだよ」

 衣鶴は震えていた。そしてそれは怒りと悲しみから来るものだった。

衣鶴「けどね,あたしは,あたしは悔しいんだよ。悔しすぎるんだよ!  一番悪い奴が何も傷付かなくて,真面目にやってる方が傷付くなんて。やっとだよ,やっと彼女心を少し開こうとしたんだよ。十五年間閉ざしていた心を、なのにそれをあいつが踏みにじりやがったんだ!  あの子が誰にも話せない事を知っていて。なのにあたし達はあいつに何も出来ないなんて、悔しすぎるよ!」

正義「衣鶴,俺だって悔いやしいよ!  出来る事なら俺が彼女と代わってやりたいと思うよ! けど,けどな,そんな事は出来ねえんだよ。俺達は彼女を支えてあげる事は出来る。そして彼女に手を差しのべる事も出来る。しかし彼女の代わりに傷みを背負ったり歩き出す事は出来ないんだ。ベッドからはい出て、そして立ち上がり,外の世界へ飛び出して行くのは彼女自身じゃなきゃ意味がないんだ! それを俺達がしてやる事は出来ないんだよ!」

       正義も衣鶴も悔し涙が溢れそうだった。しかしここで立ち止まっている訳にはいかなかった。何故ならまだ何も解決したわけではないのだから。 衣鶴はクルッと反回転し,そして精一杯明るく大きな声で言った。

衣鶴「なんか,正義っていいよね」

正義「衣鶴,おまえ・・・」

衣鶴「ほらほら泣いてなんていられないよ。一番辛いのは幸子なんだから。早く行ってあげなよ、きっと彼女待ってるよ、正義が来るのを」

正義「ああ。けどお前はこれからどうすんだ。あの事を知っているのはお前だけになっちまったんだぞ」

衣鶴「さあて、どうしてくれようかな。あたしも上田の鼻でも圧し折ってやろうかな」

正義「けど,そんな事したらお前まで退学になっちまうぞ」

衣鶴「ご心配ありがとう。けどあたしは大丈夫だよ。正義と違って要領がいいから」

正義「そっか。じゃあ俺は行くよ」

       正義はそう言い残して歩き出そうとした。しかしすぐに衣鶴が呼び止めた。

衣鶴「ねえ正義。もし,もしも仮にあたしが彼女の様に成ったとしたら,正義は助けてくれた?」

       衣鶴の目はいつになく真剣だった。そして振り返った正義は小さくうなずいて答えた。

正義「ああ勿論だとも,お前も俺にとって大切な仲間だからな」

衣鶴「そっか,それじゃあたしもいつまでもツッパってられないな。これからは正義の様に素直になるよ」

正義「本当かよ」

衣鶴「本当だよ。ああ信じてないな。だったら証拠を見せてあげる」

       衣鶴は口に手を当てて,そして大きな声で言った。

衣鶴「あたしは正義が好き!  正義の事が大好きだかんね!  だから正義も頑張れよ!」

       けれどさすがに恥ずかしかったのだろう。衣鶴は恥ずかしさを隠す様に走り出した。正義とは逆の方向に。その後ろ姿は不良少女と呼ばれていた衣鶴ではなく、ごく普通の可愛らしい十五才の少女の姿だった。

正義「あの馬鹿,大声で言いやがって・・・」

       正義は苦笑いをした。しかし今の正義にとってそれは何よりも、そしてどんな言葉よりも心強い最高の声援だった。

               *                      *                      *

      衣鶴は正義と別れて正義の居なくなった教室に向かった。

 衣鶴が教室に辿り着いた時には上田まだは来ていなかった。そして衣鶴の表情にはもう涙はなかった。さっきの素直な笑顔もなかった。そこにあるのはいつもの鋭い目をした衣鶴だった。

 ガラ・ガラ・ガラ・衣鶴が教室のドアを開けた。そしてドアを開けた衣鶴の目に真っ先に飛び込んで来たものは,正義を目の仇に思っていた北川真が,正義の仲間の一人の吉野不二男の髪の毛を掴んでいる所だった。

吉野「正義の悪口言うな!」

 吉野は抵抗しながらも北川に言った。

北川「何言ってんだ,おめえはまたいじめられてえみてえだな」

 それを見た衣鶴に怒りがこみ上げて来た。

衣鶴「おい北川!  お前吉野に何してんだ!  その手を離せ!」

       北川は衣鶴の声に気付いて振り向いた。

北川「うるせえな,何だまた正義一派かよ。おめら正義が居なきゃ何にも出来ねえくせして俺様に指図するなんて百万年早えんだよ」

衣鶴「何が百万年早いんだよ!  あんたこそ正義の前じゃ何も出来ねえくせして偉そうな事言ってんじゃないよ」

       その言葉を聞いて北川はにやりと笑った。

北川「おい,おい,そんな事俺に向かって言ってていいのか?  正義が学校クビに成った事は知ってんだぞ。もうおめら正義一派の味方は居ねえんだよ。もうお前らの正義ちゃんは居ねえんだよ」

 衣鶴はその言葉を聞いて下を向いたまま言った。

衣鶴「ああ,確かにあんたの言う通り渡辺正義はもうこの学校にも,この教室にも,そしてあの窓側の一番後ろの席にも居ないよ。けど,けどね,正義は居るんだよ,いつだって居るんだよ。あたしの心の中にね。だからあたしの目の黒い内はあんたの好き勝手にはさせないよ!」

       衣鶴の目は正義に良く似た鋭さがあった。そして北川はそんな衣鶴の言葉を今度は鼻で笑った。

北川「おい聞いたかよ,ああ気持ちわりい。正義,正義って,何かその正義って言葉聞くとこう何かかゆくなんだよ。おめらそんな事言ってて恥ずかしく無い訳?」

       衣鶴が何が恥ずかしいんだよと言いかけた時,悪友の恵子が割って入って来た。

恵子「衣鶴,あんただまされてるだけなんだよ。あいつはあんたの思っている様な正義じゃ無いよ。口の聞き方だって悪いしすぐ怒るし。あんた知ってるでしょ,あいつ女の私をひっぱたいたんだよ,最低だと思わない?」

衣鶴「けどあれはあんたがいけなかったんじゃん。だから正義が・・」

恵子「正義,正義ってもううんざりなんだよ!  みんなだってそうだよ。あいつが恐かったから言う事聞いてただけなんだよ。それに正義自身だってあんな偉そうな事言っておきながら,てめえが先公殴って学校辞めさせられりゃ世話ねえじゃん。所詮ワルはワルなんだよ,いい子でなんかいられねんだよ。その点あんただって根がワルなんだから,正義の様な馬鹿な事言ってないでまた楽しくやろうよ」

       恵子のそんな甘い誘惑に衣鶴は下を向いたまま首を振った。

衣鶴「あたしは違う・・・。恵子,あたしは違う・・。あたしはあんたと違って,もう自分をごまかさないよ!  ねえ,そんなに恥ずかしい事なのかい?  そんなに馬鹿な事なのかい? あんた達って悲しいよね,正しい事を素直に正しいって言えないなんて。あんた達って悲しすぎるよね,強がり言ってるくせしてそれなのにいつだって人の目気にしてるなんて。ねえあんた達,本当に分かり合える友達って居るの?  本気で喧嘩し合える友達って居るの?  あたしはね,あたしは居るんだよ,胸張って自慢出来る奴がね。だからあたしは一人ぼっちじゃないんだよ,例えそいつが遠く離れちまったとしても。けどあんたらは違うんだよね,いつだって誰かとつるんでなきゃ不安でしょうがないんだろ? その人を見下した目であんた達は一体何を見てんだよ! きっと何にも見えちゃいねえんだろ!! みんなだってそうだ。正義が恐かっただって?  笑わせんなよ,正義が居なかったらあんたらみんなこいつ等の餌食になってたんだぜ。平和ボケしてんなよ! こんな世の中なんだ,自分の目で善悪みきわめなきゃ,本当に殺されちまうよ!  腐った学校(せかい)に埋もれてんじゃねえよ!!」

       衣鶴は叫んだ。しかし心の中では,分からなくても構わないと言う気持ちと,何で分かってくれないの? と言う気持ちが交差した複雑な気持ちだった。

北川「おい恵子,こんな奴にこんな事言われていいのかよ,やるんなら手伝ぞ」

       しかし北川のそんな問いかけに恵子は答えなかった。

北川「おい,どうした?  なにだまってんだよ」

       その時だった,吉野は北川の空きを見て腕に噛みついた。

北川「いてえ!  この野郎何すんだよ」

吉野「北川,もうお前の言い成りにはならないんだ!」

北川「なんだと」

吉野「殴りたいんなら殴れよ。けれど幾ら殴られたって絶対お前の言い成りになんかなるもんか。僕だって衣鶴さんと同じで心の中に正義がいるんだ! 笑いたきゃ笑えばいいよ。けど本当の勇気の無い奴よりましさ」

北川「上等だよ!  だったらその勇気って奴を見せてもらおうじゃねえか」

       北川が吉野の胸倉を掴んで殴ろうとしたその時だった。

恵子「北川!  やめな」

       止めに入ったのは恵子の方だった。

北川「なんでだよ,お前こんな事言われてムカつかねえのかよ」

恵子「あんたまだわかんねえのかい?  周りを見てみな」

       恵子は顎で周りを指した。北川も恵子に言われて周りを見渡した。そしてそこで見たモノは,北川をにらんでいるみんなの目だった。

                *                      *                    *

      幸子の母親の和恵はここ数日間の幸子の様子に少し疲れ気味なのだろう。テーブルに頬杖を付いて,ぼんやりと目の前の何もない空間を見つめていた。

       ピンポン  その時だった、インターホンが鳴ったのは。

和恵「はい、どちら様ですか?」

       和恵はそう言いながら家のドアを開けた。そしてその開けられたドアの向こうに立っていたのは,渡辺正義だった。

正義「こんにちは、渡辺です」                                             和恵「あら,正義君,今日も幸子のお見舞いに来てくれたの?」

正義「ええ」

       和恵はそんな正義にすまなそうに言った。

和恵「ごめんなさいね,せっかく来てくれたのに幸子今寝てるのよ。昨日ね,明日はゆっくり寝ていたいから起こさないでねって。だからまだ寝てるんだけれど、どうする?  もしあれだったら起こすけど」

正義「いや、起こさないで下さい。きっと今まで色々あったんで疲れているんですよ。だからゆっくり寝かさせてあげてください。それと彼女起きたら、俺は新しい第一歩を踏み出したから、一緒に頑張ろうって伝えて下さい。それじゃ僕はこれで」

 礼をして去ろうとした正義を和恵は呼び止めた。

和恵「あっ正義君,ちょっと待ってて」

       和恵は一度家の中に入ってまたすぐに戻って来た。右手に一枚の可愛らしい封筒を持って。

和恵「昨日幸子が、正義君が来たらこれを渡して欲しいって言ってたの」

       そう言って和恵は正義にその便箋を手渡した。その便箋は熊のぬいぐるみがワンポイントで入っている可愛らしい便箋だった。そして裏には幸子の丁寧な字で,正義君へと書かれていた。

正義「あっそうですか,これを僕に・」

和恵「きっと親にも言えないあの子の気持ちが書いてあると思うの。ねえ正義君,いつまでもあの子の力になってあげてね。本当は母親の私がなってあげれればいいのだけれども,私はどうやら母親失格みたいだから」

 正義はそんな曖昧な和恵の態度に少し怒る様に言った。

正義「どうしてそんな事言えるんですか?  彼女は今、必死になって堅い殻から抜け出そうとしているんですよ! 自分の子供が必死になって頑張っているのに、母親のあなたがどうしてそんな事言えるんですか? 幸ちゃんにとって母親はこの世の中にあなた一人しか居ないんです。それなのに母親のあなたがそんな事言っていたら彼女が可哀想ですよ」

 和恵は正義に言われてあらためて自分の弱さ、そして一生懸命頑張っている自分の娘の事を考えた。

和恵「ごめんなさい。だけどおばさん、どうしていいのかわからなくて・・」

正義「それはきっと心を開く事ですよ。お母さんが幸ちゃんの気持ちがわからない様に、きっと幸ちゃんもあなたの気持ちががわからないんです。だからもし彼女の気持ちを理解したいなら,まず自分をさらけ出す事が大切だと僕は思います」

和恵「そうね、自分をさらけ出すね・・・」

 和恵は正義にそう言われると確かに母親と言うよりも、母親の役を気取っていただけだったのかもしれないと思えた。

和恵「ねえ気を悪くしないで聞いてね,おばさん正直言って初めは何であの子が貴方みたいな男の子に心を開くのか分からなかったの。見た目は決して優しそうに見えなかったから。だけどね、最近その意味が少し分かってきた気がするの。正義君ありがとうね。おばさん頑張ってみる,今一番辛いのは私じゃなくてあの子なんだものね」

正義「大丈夫です。きっと彼女はいつか心を開く時が来ます。それじゃ僕は失礼します。彼女に宜しく言っておいて下さい」

       正義はそう言って振り返った、そして去り際に彼女の部屋の窓を見た。そこには今さっき和恵から手渡された便箋と同じ、熊のぬいぐるみの柄のカーテンが引かれていた。

 和恵は正義が返った後、幸子の部屋の前に立っていた。そして部屋のドアをノックしようとした。正義君が来た事を教えてあげる為に。しかしノックをするのをやめた。もう少し眠らせてあげよう。何故ならそれは久しぶりに幸子が見せた自分の意志だったから。

 和恵がドアの前から離れて階段を降りようとした時,ピンポン!ピンポン!ピンポン!とまたインターホンが鳴った。しかし今度のインターホンは先ほどのよりも荒々しいモノだった。

 和恵は慌てて玄関に向かった。そしてドアを開けた向こうには,さっきでまでの穏やかな正義では無く、もの凄い形相の正義が立っていた。

正義「おばさん! 幸ちゃんは本当に寝ているんですか!」

       正義は慌てていた。その言い方からも何か緊迫したものが感じられた。

和恵「えっ、ええ」

正義「すみませんが、部屋行ってもいいですか!」

和恵「えっ、ええ構わないわよ。でもどうしたの?  そんなに慌てて・・」

       しかし正義はそんな和恵の問い掛けも聞かないまま,階段を昇り部屋に入った。和恵も冷蔵庫からジュースを出し、そしてそれをおぼんに乗せてから幸子の部屋ヘ入って来た。

 部屋の中はカーテンが引いてあった事もあって薄暗かった。そして正義は彼女のベッドの前に立って,彼女の顔に手を当てている様だった。

和恵「どう?  幸子ぐっすり眠っているでしょ」

       和恵はそう言ってから、おぼんを机の上に置いた。その時何か小瓶の様な物にぶつかってそれが倒れたけれど、それが一体何なのかは分からなかった。

正義「・・・」  

和恵「ねえ,起こしてあげれば?  きっと喜ぶと思うよ」

       和恵はベッドの脇に行って窓のカーテンを開けようとした。丁度その時だった。正義がポツリとつぶやいたのは。

正義「・・おばさん・・・・幸ちゃん・・・・・幸ちゃんね・・・・・死んでるよ・・・・・・」

和恵「えっ」

       途中まで開かれたカーテンの隙間からこぼれる光は幸子の真っ白い顔と、机の上にあった小瓶を照らしていた。そして倒れた小瓶は睡眠薬と書かれた空の瓶だった。

 和恵は慌てて横になっている幸子を揺すって起こそうとした。

和恵「幸子、幸子!  どうしたの幸子!  早く起きなきゃ。正義君が来てるのよ。幸子の大好きな正義君がお見舞いに来てくれてるんだよ。幸子!  幸子! 早く起きなさい! ねえ早く起きてよ。起きてよ・・・」

       しかしどれだけ起こそうとしても、どれだけ揺すったとしても、幸子は目を覚ます事はなかった。何故なら幸子はもうすでに息をしていなかったのだから。

       正義は茫然と立ち尽くしていた。そして右手で掴んでいた手紙がポトリと床に落ちた。そしてその手紙には、とても細く、そしてとっても小さな可愛らしい字でこう書かれていた。 

〜正義君へ。私はあの日から一睡もしていません。寝る事が出来ないのです。夜になって目を閉じると,そこにはあの日の悪夢が甦って来るのです。何度も何度も寝よう寝ようとするのですが,すぐにうなされて起きてしまうんです。私ね,正義君が頑張ろう,頑張ろうぜって応援してくれるから,何度も何度も頑張ろうとしたの。だけど頑張ろうとすればする程私の体は腐り始めるの,あの上田先生に触られた胸が,おしりが,そしてあそこが。でもね,今私にとって一番辛い事は眠れない事や体が腐り始める事なんかじゃないの。私にとって一番辛い事は,正義君の顔がまともに見れなくなって来ている事なんです。正義君が私に合いに来てくれる事が辛くなっている事なんです・・・。でも私,正義君を嫌いになりたくない,合う事が辛くなりたくない。ねえ正義君,貴方は覚えていますか?  新入生交流旅行で夜みんなでキャンプファイヤーの前でフォークダンスを踊った時の事を。私は今でもしっかり覚えていますし、一生忘れません。それまでの私は根暗ブスってずっと言われて来たから,男の子はみんな私の所に来ると誰も手を握ってくれませんでした。それ所か,あんまり近くに寄るなよ! って小声で言ってたの。でもあの時,そんな私を見て正義君はみんなを払い退けて私の所に来て,そして私の手をしっかり握って踊ってくれたんだよね。あの時私すごく嬉しかったの。十五年間生きて来て初めてだよ。初めて知ったんだよ,人は嬉しい時も涙が出るんだよね。私は今まで知らなかったんです,涙は悲しい時しか出ないもんだとずっと思っていたから。でもそんな正義君との楽しかった思い出が楽しければ楽しかった程,今の私には鋭い凶器に成って襲ってくるの。私は一体どうすればいいのですか?  もう限界なの。この手紙も何度も何度も書き直したの,全然うまく言いたい事が言えなくて,さっき睡眠薬を飲んで,ああやっと少し眠れるのかなと思ったら少し落ち着いて来てやっと書けたの。もしも私が目を覚まさない事があったら,私の机の中の遺書を学校に公表して下さい。そうすればきっとうまく行くはずだから。最後に正義君。ずっと仲間でいようぜって言う約束守れなくてごめんね。そして本当にありがとう。幸子〜 

 幸子にすがる様に泣く和恵の横で、正義は突然頭を抱え込んで倒れた。痛い、痛い、心が、心が痛い!! そう叫ぶと正義は意識を失った。

 〜たとえばそれが真っ直であればあるほど たとえばそれが張り詰めていればいるほど
 折れやすく切れやすいものなんだ 僕達は体こそ大きく成ったものの心は不完全で弱いモノだから
  だから優しく触れないと きっと壊れてしまうものなのだから〜
 

              〜15年後〜                *

正義「わあ〜!来るな!  消えろ!  消えちまえ!」

       正義はパイプベッドを壊そうとしたり、しきりに壁を殴りつけていた。その部屋はパイプベッドと洗面台しかない,とてもシンプルな部屋だった。そして窓には鉄格子がはめられていた。

看護婦A「渡辺さん,大丈夫ですよ,誰も貴方を襲ったりしてないから」

正義「何言ってんだよ。あんたには見えないのか? そこに毒蛇が居るじゃねえか」

       正義は押さえつけようとする看護婦達を突き飛ばした。

看護婦A「痛ったあ。ちょっと貴方,先生呼んで来て」

看護婦B「先生って、吉野先生ですよね?」

看護婦A「そうよ。吉野先生を早く!」

      そう言って看護婦は暗い廊下を走り出した。そう吉野とはあの時の  吉野不二男だった。

吉野が駆け付けた時には正義は看護婦が三人がかりで押さえ付けら  れていた

看護婦A「先生早く注射を・・」

      吉野は急いで注射器を正義の腕に刺そうとしたその時だった。

正義「痛い!!」

吉野「おい正義。痛い訳ないだろ,まだ注射針を刺していないんだから」

正義「痛い!  心が,心が痛い。幸ちゃん・・・・」

       その言葉を聞いて、一瞬吉野の動きが止まった。

吉野「えっ、今お前なんて言ったんだ。まさか正義! お前記憶が戻ったのか? なあ正義、俺が誰だかわかるか?  十五年前いじめられっ子だった俺を、お前が助けてくれた吉野だよ。吉野不二男だよ」

       初めての事だった。正義があれ以来あの時とつながる事を口にしたのは。けれどその後いくら吉野が問い掛けても、正義はいつもの無表情の正義に戻っていた。

 その夜吉野は正義が座っているベッドの前に椅子を置き,壁を見つめている正義の目の前に座っていた。そして吉野はそんな正義に優しく話しかけた。

吉野「なあ正義,お前は覚えているか? 十五年前。あの子が死んでお前は精神分裂症になった。そしてお前はこの精神病院に入院したんだ。あの時は誰もが諦めたよ。医者もこんな重傷の患者は見た事が無いって。けれど俺達は諦めなかった。信じていたんだよ,お前の事を。なあ正義,お前は知っているか? お前の治療費を一体誰が出しているか。そう俺も含めてあの時の仲間なんだ。みんな少しずつお金を出し合っているんだよ。その中には幸子ちゃんのお母さんの強い希望で,幸子ちゃんの慰謝料も含まれているんだ。きっと彼女も天国で正義の事応援したがってると思ってな。みんなそれぞれ忙しいけれど,月一回はお見舞いに来るんだよ。それに衣鶴を覚えているか? あいつなんて殆ど毎日来てんだぞ、正義が寝たきりに成ったら私が面倒見るんだ、なんて今からそんな事言ってさ。なあ正義,みんなお前に見せたいんだよ、自分達の成長ぶりをな。俺もお前がなんて言うかわからないけれど、一応医者に成ったよ。一体どういう事するか知っているか? 俺の仕事は今のお前の様な奴や、あの時助けられなかった幸子ちゃんの様な子を一人立ち出来るように成るのを手助けしているんだ。まだ半人前だから苦労も多いけどな。でもな,俺はこの仕事に誇りを持っているんだ。他のみんなだってそれなりに誇りを持って頑張っているんだ。なあ正義、お前は負けたとか世の中は変わらなかったとか思うかも知れないが、そんな事はないんだぞ。あの学校も今は松田先生が校長に成って、生徒の意思を尊重出来る学校に成ったらしいし、俺だって何人も小さな命を救った。そして何より世の中を変えたのは衣鶴だよ。あいつは小説家に成ったんだ。この前も話したけど,あいつ正義の事をノンフィクションの小説で書いたんだよ。そしたらなんと新人賞取っちまいでやんの。今や高校生の間じゃバイブル的小説らしいぞ。マスコミも取り上げて社会現象にまで成ってるんだ。世の中は確かに変わったよ、みんなお前の影響を受けて。それに今だってみんな正義の様に成りたいんだ。そしてお前の仲間でいたいんだ。だからあと十年かかってもいい、いや二十年三十年かかったて構わない。またあの時の様に正義の胸を張ったその姿を,もう一度俺達に見せてくれよ。誰の為じゃ無く、自分の為に・・・」

       吉野はベッドの上で膝を抱えて、そして壁にもたれて座っている正義に話しかけていた。そして吉野が自分の為にと言った時,一瞬正義が微笑んだ様に見えたが,その幻はすぐに窓から差し込む月あかりの中に消えた。けれど吉野はその時確かに確信した。きっと本当に正義が微笑む日もそう遠くないと言う事を・・・・。       

〜きっと人の人生なんてとってもはかないモノなのかもしれないさ。
 けれどその人生の中で手に入れられるモノは  きっと限りなく多いモノなのかもしれないね。
  だって僕らはいつだって確かにここに存在しているのだから〜

〜完〜                                      

  この作品を読んで下さったすべての人に僕は心から感謝いたします。本当にありがとうございました。

                 KAZUHIKO.SAITO