時にはシリーズ最終章
 
 
 
 

時には愛の様に・・・

 

〜本当の正義や本当の勇気、そして本当の愛ってあなたが思っている様な、

そんなに見かけは強かったり格好良かったり、そして美しいモノばかりじゃ無い様な気がします〜

著者 斉藤和彦

1999年初夏

 澄みきった空、乾ききった大地、風は無風、聞こえてくるものは疲れ切った息づかいと頭が割れるくらいに響くセミの声だけだった。そしてそんな中、太陽はまるで己の壮大さを誇示するかの様に、痛すぎるほどのその強い光を注いでいた。

 足下には一匹の小さなアブラゼミが死の直前の断末魔を上げ、のたうち回り、そしてまるで生まれてきた意味や生きてきた意味も分からないとでも言いたそうに暴れ回り、それから静かにその小さな命の灯火を消した。セミが死んだ後しばらくすると、その小さな残骸はすうっと消えて行き、その代わりにそこには小さな真っ黒い穴が現れる。穴は初めは拳ほどのものなのだけれど、それは少しずつ大きくなり始め、やがてその穴は全てをも包む位まで大きくなる。そして全てを包み込んだその穴は、既にもう穴とは呼べないものに成っている。真っ黒い壁、真っ黒い天井、そして真っ黒い床。もはや光と呼べるものは何もない。光の存在自体意味の無いものになる。相変わらずセミの声は聞こえている。セミが鳴き始めたのは一体どれくらい前の事なのだろうか? 覚えている限りでも、もう何年も前からセミはこの世界に住み着いていて、そして鳴き続けていた。 セミだけではない、地をカタカタと不気味な音を立てて、この世界の地面を食べながら這い回る七色のムカデ、そして大きなお尻をプリプリ動かしながらそのお尻の先から毒の紫の糸を垂らし獲物を待つ黄色と赤の縞縞模様の毒蜘蛛。そんな中でも一番気味が悪いのは何と言っても血の吹き出した窮屈な穴に無理矢理潜り込もうとする頭の大きな白い蛇だ。その蛇は頭の部分だけ逆三角形に大きく発達していて、体はその大きな頭に比べるとやけにか細く見える。尻尾の方はいつでも暗闇の中で見えないが、大体想像は付く。この世界ではそういった生き物が自分の意志とは関係なく徘徊していた。いずれもある時期を境に住みだした生き物で、時々耳鳴りと共に現れた。そうなってくると愛はもう逃げることは出来なくなった。蔦は体に絡まり動けなく成る。助けて・・・。やめて・・・。声は喉から先に出てこない。そんな時は愛は決まってヘッドホンのボリュームを最大にあげた。そしてヘッドホンから鼓膜が破れそうな位大きな音楽流れてくる。汚い言葉、下手くそな演奏、そしてかすれた声だったが。けれど聞こえてくる音楽には、儚い程の優しさが込められていた・・・・。

時には愛のように・・・(最終章)

第一章・・・序章・・・

 1999年七月、飯田愛は東京都立精神医療センター一室に居た。環境設備の整った病室。窓には遮るもは何も無い空が広がる。病室は新館の五階にあたる所にあり窓の下の方を見れば、隣の四階建ての旧館の部屋が窓越しに見える。鉄格子に囲まれた旧館の窓、それは同じ施設内の建物とは思えない程の落差があった。愛はここ数年間の間にこの病院で入退院を繰り返していた。けれどその度にこの病院の同じ部屋に入院していた。それは自分が望んでいた事では無く、たまたまその部屋に入院しただけの事であって、大きな理由なんて無かった。けれど同じ部屋に入院を繰り返していると、その部屋に愛着の様なモノが湧き、そこが自分の居場所の様に感じられるものだった。愛が興味を持っていたのは部屋では無く、むしろその窓の下に広がる景色にあった。愛は入院中は読書かウォークマンを聞くことか、その窓の下に見える景色を眺めるて居ることが殆どだった。特にその窓の外に見える景色で気になっていたモノは。旧館の四階の一番右端の一番良く見える部屋の中が気になっていた。そこには二十代後半だろうか、時には三十代後半にも見える男が鉄格子越しに見える。他にも見える部屋は幾つもあった。けれど愛の目はいつでもその男の所に止まる。特に目立った行動をしている訳でも無く、その行動は端から見れば暇つぶしに成るとはとても思えない。けれど愛はその男を見ている時だけは何故か時間の概念を忘れることが出来た。あと見える部屋は全部で7カ所位あったが、そこに居る全ての男共が醜くおぞましくも感じる事の方が多かった。

 ・・・男なんて汚らわしい・・・。

 では何故そんな一日の大半を体育座りの様な姿勢で、見えているのかいないのか分からないが、鉄格子越しに空を眺めているだけの名も知らない男に興味を持ったのだろか。理由は今もハッキリとは分からない。考えられることはその男の瞳にあったのかもしれない。初めて愛がその男を見たのは五年前のまだ愛が中学一年生の時に、初めてこの病院に入院した時だった。その頃は撹乱された世界で、見るモノ、聞くモノ、触れるモノ全てを拒んでいた。正直自分でもその時の状態はあまり良く思い出せない。現実と幻覚の世界は混乱した頭の中では全てを曖昧なモノにした。だから何が実際起こった事で、何が想像の世界の事だか分からないと言うのが本音だった。苦しかった、辛かった、そんな言葉で片付けてしまうには、それはあまりにも大きすぎた。既にその出来事、そしてその後に起こった出来事は愛一人の力では受け止めきれる問題では無かった。けれどそんな時に目に見えたのがその男の瞳だった。勿論この病棟とその病棟では多少の距離があり、顔の形までハッキリ見えた訳では無い。けれど感じた視線は確かにその男のモノであり、愛が見つめ合ったのもその男の瞳だった。その男はそのキリッとした瞳から涙を流していた。誰の為? 何の為? 理由は分からないが、少なくとその時の愛にはそれは愛自身の為に流してくれている様な気がした。そしてその男の瞳には優しさがあった。そして何よりも純粋さがあった。その瞳だけ見ればそれは明らかに十代の輝きだった。けれどその男は苦しんでいた。何かに襲われる恐怖、そして何かを失った悲しみ。それはその時の自分と共通するモノが感じられた。そんなモノが愛の心の片隅に感じられた時に始めて愛はその男に色々な意味で興味を持った。それから愛は一日の半分位をその男の観察にあてた。そしてそれは自分探しの旅のようでもあった。

 その男は一日の殆が頑なに心を守っているのだろうか? 体育座りの様な姿勢をとっていたが、時には攻撃的に成ることもあった。時にはそれは壁を物凄い勢いで殴りつける場合もあれば、看護婦や看護士に対して暴れる事もあった。そして時々は何かに怯えるように震えていることもあれば、やはり何の為か分からないが涙を流していることもあった。その男の変化は他に見えるどの部屋の人間より少なかったが、その男の部屋の中の変化は他のどの部屋よりも多かった。それはその男の所に来る見舞客の事だ。余程その男には人望があったのだろう。とにかく多い日には一日に五、六人の見舞客が来ることもしばしばあった。見舞客の年齢層は極端だった。五十過ぎのしっかりした中年の男性が何人かの高校生位の人を連れてくることもあれば、三十位のその男の仲間達だろか、二、三人で来ることもあった。そしてそんな中、殆ど毎日と言って来る女性が一人居た。遠目でもよく分かる位綺麗な顔立ちのその女性はその男の恋人、もしくは奥さんなのだろうか? 毎日のように来てはその無反応の男に話しかけたり、時には本の様なモノを読んで聞かせていた。そんな光景は愛にとって何とも言えない気持ちにさせられる光景だった。何故ならその男に比べて愛の方の見舞客と言ったら、殆ど皆無に等しかった。初めはみんなそうかもかもしれないが、色々な人達が見舞いに来てくれた。けれどそれは時を経て、そして入退院の回数を増す事に減っていき、今では月に一、二度誰かが暇つぶしに来てくれるだけだった。けれど向かいの部屋にいるその男の場合は違った。愛が知っているだけでもその男は五年以上その部屋に居ることになる。けれど実際はその倍、もしくは三倍以上居る可能性もある。けれどその男の部屋に見舞いに来る数は、愛が知っている五年間の間だけでも減ることは無かった。そんな男の部屋の光景をある時には羨ましく、またある時には一体その男にはどれだけ人を引きつける魅力があるのかと言う事を感じていた。けれどそんな事を考えると愛の心は複雑になる。私には魅力や人望は無いの? それともそもそもあの男の時代の友情はそう言うモノで、私達の時代の友情は薄っぺらなモノなの? それとも男と女の差? けれどそれは他の病室を見れば一目両全だった。その男の部屋だけが特別なのだ。愛はそんな事を目の当たりにしながらも、そんな男に少しずつ心を動かされている事だけは確かだった。

 それ以外に愛が日頃していたことは読書だった。別に本が好きなわけでは無かった。ただたまたま初めの頃見舞いに来てくれた友達が辛いときに読むとがんばれるよって言ってくれた本があった。その本は十年位前に話題に成ったらしく、当時の中高生の中ではバイブル的存在だったらしいかった。今でも一部の人達には根強い人気があり、かなりのロングセラーに成った本と言うことだった。その本の著者は磯崎衣鶴と言う女性作家で、そしてその本のタイトルは『時には正義(せいぎ)の様に・・・』と言うタイトルだった。中身は女性作家では珍しく露骨な表現や、汚い言葉が幾つも出てきたが、決して不快なモノでは無くスッキリするモノだった。けれど結末はそんなスッキリさと違って、かなり悲しい結末だった。主人公、渡辺正義(わたなべせいぎ)には全ての悪にも負けない強さがあった。掃いて捨てたく成るような悪党共を片っ端からやっつけて、どんな強い権力にも負けなかった。それでいて弱気者には優しいく接した。それだけなら今までの正義の味方と一緒なんだろう、けれど渡辺正義の魅力はそれだけでは無い。弱い者を助ける代わりに、厳しさも教えた。それはある意味では平等だった。そしてそれはある意味、自分が居なくてもその人間が負けない強さを身につけるようにと言うことだった。そしてその事を恥ずかしがらずに、当たり前の様にすることが渡辺正義の最大の魅力なのだろう。そしてそんな渡辺正義を取り巻く環境はそんな男一人の行動で変化していった。高校生活の初めの頃に起こった、校内全面戦争。それは自分の力を誇示する生徒同士の争い、そして教師からの必要以上の圧力、けれどそんな全面戦争も渡辺正義はたった一人で立ち向かった。全ての悪を敵にまわして。正義は戦った。決して負けることは無い。決して許すこともない。ただ自分が信じる道を力強く歩く。けれど時々は反省もした。そして人の言葉をしっかりと受け止めた。例えそれがどんなに小さな声だったとしても。そしてその全面戦争は表面上は正義の一人勝ちに終わったかのように思えた。けれどある時、それは最悪の自体になった。それはその頃に出来た正義の仲間の一人の女の子幸子と言う女の子に対しての教師のレイプ事件だった。それを知った正義の怒りは一教師に向けられた。それからは正義の強制退学への道は速かった。誰にも本当の訳を言わなかった正義は一部の人間を除いては誤解された日々だった。それでも正義はその全てを一人で背負い、そしてその事に後悔はしていなかった。けれどこれから、新しい第一歩を踏み出そうとした瞬間、また悲劇は正義自身の気持ちとは関係無い所で起こった。それはその女の子の自殺だった。儚すぎるほどの死、そして悲しすぎるほど短かった人生。正義はその罪を全て自分だけで背負おうとした。けれど肉体的には強かった正義も、心はとても純粋過ぎて脆いモノだった。結局正義はそんな苦しみに絶えきれずに、精神は完全に崩壊し、そして精神病院に入院する事に成った。けれどそんな正義が残したモノは沢山あった。正義の意志は継がれ、残された正義の情熱は消えることは無かった。それがこの本の内容だった。

 愛はこの本を読んで、初めのうちは信じられなかった。確かに噂では現実に起こった事を書いた本として言われていたが、けれど本当にそんな人間がこの世の中に存在したと言うことが信じられなかった。少なくと愛はこの十何年間の間にそんな人間を見たことは無かったし、出会ったことは無かった。多少フィクションで膨らましているのだろうか、それとも本当にその時代にはそんな男が居たのだろうか、愛の心の中でその疑問は一人歩きしていた。著者の紹介を見れば作者は自分と十五歳位の差があった。もしも仮にその話が著者の実際に体験した事であれば、著者がまだ高校生の頃の話だ。それは十五年前の事で、それは自分は生まれたか生まれないかの頃だった。勿論その頃の時代の記憶は何もない。ただその本が真実を語っているのならば、そんな事が十五年前に実際に起こった事と言う事だった。愛はその本を初めて読み終えた時にその頃の時代の事をほんの少し考えてみた。きっとその頃の時代にはまだ不良と呼ばれる人間が居たらしい、そして教師達は生徒を縛り付け、学校内では派閥というモノがあった。常に争い事があり、勝者と敗者が居た。そして悪と正義があり、そのどちらにも属せ無い者もいた。そんな時代だった、その本に書かれた時代は。けれど今の時代(学校)はどうだろ。不良も優等生も居ない。みんな同じ顔をして個性が無かった。何もかも欲しいものは手に入れられて、奪い合いや争い事は無い。束縛されることもなく、怒られる事もなかった。イジメも無ければ不平等も無かった。けれど何かが違った。何かが違ったと言うよりも、何かが足りなかった。そんな世界を愛は歩いてきた。そして一つの本の中にその足りなかったモノがあった。ただそれだけだった。

 愛が外を眺めている時、そして本を読んでいる時もそうだったけれど、愛の一日の殆どと言って良いくらいの時間、愛はヘッドホンで耳を塞いでいた。それは俗物的なモノは何も受け入れたくないと言う気持ちの表れでもあったが、本当の理由はそこから流れている曲(歌)にあった。愛がその歌と初めて出会ったのは七年前の、まだ愛が何も知らなかった時だった。その頃はまだ愛は小学五年生の時で、その頃はまだ昔の風がまだほんの少し感じられる時代だった。

 今世紀最後の不良バンドとしてヤングバンドフェスティバルのステージに傷だらけで上がって来たのはまだ志田勇気(しだゆうき)と言う男が十六の時だった。その時の光景を愛は今でもハッキリ覚えていた。愛は地元で行われるヤングバンドフェスティバルの会場に来ていた。理由はその頃小学生の間でも人気があった、ビュジュアル系アイドルバンド、トーイズが来るので見に行こうという友達の誘いがきっかけだった。その頃の愛は何処か冷めていたところがあった。だから本当の事を言うとそんなアイドルバンドに興味があった訳ではなかった。けれどだからと言って断る理由も無かった。その頃の人間関係と言うのはハッキリした理由が無ければ断ることはしないと言ううんざりする人間関係だった。そしてそんな友達の誘いにやはり断らずに愛はヤングフェスティバルの会場に向かった。まさかその場所で衝撃的な出会いが待っているなんて想像もつかないままで。

 目的のトーイズは三番手でステージに立った。それなりの歓声に囲まれて歌う歌は、きれい事で造られたの偽りの愛の様に愛には聞こえてきた。そしてトーイズが歌う歌が終われば友達の興味はそのステージには無かった。けれどせっかく来たのだから最後まで見ることに成った。それから幾つもの同じ様な歌を歌うバンドが現れては消えた。そしていよいよ最後のバンドの番に成った。正直愛の気持ちはこれでやっと終わるのかと言う心情だった。けれど最後のバンドはなかなか現れない。しばらくの沈黙が続いた。それからステージに現れたの四人組のバンドなのに三人しか登場しなかった。その中の一人が事情を熱く語った。けれどそれは直ぐにブーイングに包まれる。一体このバンドには何があるのだろうか? 周りの人の話によればそのバンドはアウト・サイダーと言う不良(パンク)バンドの生き残りと言うことだった。そして数分間のブーイングを制したのはステージの後ろから現れた一人の男だった。顔はアザだらけで、所々からは血が滲み出ている。それはあまりにも痛々しく愛には感じられた。けれど彼の顔は笑顔だった。そして彼はそんな痛々しい傷付いた体をかばうことも無くステージへの階段を勢いよく昇りマイクを握った。その瞬間、周りは緊迫した雰囲気に包まれる。それは何も知らなかった愛にも伝わってきた。彼の歌は熱い歌だった。そして重くて深い歌でもあった。必死に演奏するバンド、そして激しく歌う志田勇気。愛にとってはそれは衝撃的出会いだった。彼の歌を聴き終えても愛の興奮は終わらなかった。アンコールの声にも愛は恥ずかしさも忘れて叫んでいた。そして数分後の結果発表。優勝候補のバンドが欠場した事もあって優勝はその志田勇気率いるアウト・サイダーだった。けれど幸福と不幸は同時に現れた。愛がその会場の外に出ると警察官が会場を囲んでいた。その時にはその理由は分からなかった。けれど「こっちだ!」と言う叫び声をきっかけにその意味が分かった。その声の先にはあの志田勇気が居た。会場を出てきた志田勇気は警察官に囲まれた。そしてその時にその周辺で暴動が起こったが数分後には何人かの少年と共に志田勇気はパトカーに乗せられた。その一部始終を愛は見ていたがその理由はその時には分からなかった。そして愛と勇気の歌が再び出会ったのは一年半後の事だった。勇気のプロデビューは勇気がまだ十八の時だった。年少上がりのロックンローラー初アルバムとして一部のマスコミが取り上げていた。勿論愛はそのアルバムをいち早く買った。歌は決して上手いと呼べるモノでは無かっが、その歌には情熱や優しさがあった。そして何よりも真実があった。勇気はデビューと共に結婚をしたらしかった。けれどマスコミ嫌いなのだろうか、記者会見的な事はせず、それは密やかに行われた。それからも彼はマスコミには殆ど出ることは無かった。あの出来事が起こるまでは・・・。

 愛の一日は部屋の外に見えるあの男を見るか、磯崎衣鶴の本を読むか、そして志田勇気の歌を聴くか位のものだった。他の事は殆どしなかった。時々医者のリハビリを受けさせられるが、それは何だか意味の無いことの様に感じられた。愛の病状には波があった。時々は押さえつけられる苦しみや恐怖が現れるが、そうでは無いときは殆ど無に近かった。無というのは普通とは違う、普通以外、むしろ普通以下とでも言えば良いのだろうか、誰もが当たり前に受け止めるものが愛には受け止めることが出来なかった。一番愛が日常生活で障害を受けるのは会話だった。元々会話は得意な方では無かった。自然と言葉が出てくる会話では無くて、言葉を選んでする会話だった。それまでの会話というものは。けれどある時からその選ぶ会話ですら困難になった。愛は頭は良かった。小学校の成績もオールAでいつでもクラスの中では一番だった。けれど中学一年のある時を境にそれは落ちていった。勉強どころか、何に対してもそうだった。何も受け入れたくない、何も考えたくない、純粋で綺麗なモノ以外何も要らなくなった。そうなれば必然的に多くのものから遠ざかって行く。中学三年の時の成績はクラスの下から数えた方が早い位の成績だった。高校進学もそんな成績を受け入れてくれるところは限られていた。就職する気にも成れず、新しい環境(高校生活)にも希望が持てずにただ時間だけが無駄に過ぎていった。それは殆ど惰性の様な生活だった。この先のこと? 何も考えていない。今までのこと? 振り返りたくもない過去だった。心の支えは? あった、一冊の本と一人の歌、けれどそれは手の届くモノでは無かった。そんな人間に自分も成りたい。けれどそんなにも強く成れないと思いこんでいた自分がそこには居た。愛は結局進学もせず就職もせずにこの病院の入退院だけを繰り返していた。そして愛の入退院の大きな理由としては摂食障害があった。大体入院を余儀なくされる時には体重が三十五キロ位の時で、腕や足は棒の様にか細くなる。そして入院をして四十キロ中盤の体重に戻ると退院、そんな事の繰り返しだった。医者も根本的な所から治さなければならないと言う事だけは分かっているが、体重が戻ると安心でもするのだろうか? それとも不必要とでも思うのか、後は処方箋だけで様子を見ると言う事になり一時退院させられる。勿論定期検診はあった。けれどそれもやはり現代医学が無力の様にその定期検診もやはり無意味なものだった。結局抜本的対策は何も無いと言うのが現状と言う事だった。

 八月十七日の午後、窓から差し込む日の光はまるで自分の存在を誇示するかの様に、強いその日差しをそそぎ込んでいた。けれど愛はそんな夏が嫌いだった。何もなく生活していたのならば今頃は、楽しい夏休みか大学受験に燃える夏休みが待っていたのだろう。けれど愛の夏は病院の一室で過ごす夏だった。愛はいつもの様に病室で磯崎衣鶴の書き下ろしの最新作の本を読んでいた。そんな時、部屋のドアが開いた。外からは愛の唯一の友達と言って良いだろう、愛の幼なじみの木下尚子が入ってきた。

「調子はどう? ごめんね最近来れなくて」

 尚子はそう言って肩から掛けていた鞄を下ろした。

「今日は塾休みなの?」

 愛は本を閉じて尚子に言った。

「うんん、今日はサボり。もうここんところ毎日塾に行っては勉強、家に帰ればまた勉強。たまには生き抜きしないと体もたないよ。だから今日はサボるって決めたの。まあここんところ愛のお見舞いも来てなかったし、たまにはサボっても誰も文句は言わないでしょ」 尚子はそう言いながら見舞い用のパイプ椅子に腰を下ろした。そして周りを見回した。「相変わらず、何も無いね。花でも買ってきてあげれば良かったんだけど、今お金無いんだ」

「別にいいよ。花があっても別に変わらないから」

「そうか、でっ、最近どうなの調子は?」

「相変わらずってところかな」

 尚子はふうんんと納得したようなしないような曖昧な返事をしていた。

「あっそうだ。尚子はこの本もう読んだ?」

 愛は思い出した様に自分が今さっきまで読んでいた本を尚子に見せた。

「磯崎衣鶴の最新出たんだ。でも今はとてもじゃないけど読んでる暇無いなあ。それに磯崎衣鶴の作品はもう時代遅れでしょ。今は井上貴子の方が人気あるんだよ。磯崎衣鶴と違ってロマンティックだし」

 尚子のその言葉を聞いて愛は少しショックだった。磯崎衣鶴の本を薦めてくれたのは尚子の方だったし、それに愛にとっては衣鶴の作品は今でもとても面白かった。

「それよりさ、向かいの男はどう成ったの? 相変わらずまだ治らないのかな」

 尚子の言う向かいの男とは、あの男の事だった。

「相変わらずよ。殆ど変化は無いよ」

「そうなんだ。でも一体いつまで入院しているんだろうね。まさか昔悪いことをして、そして精神鑑定の結果、永久入院とかだったりして、そう見ると無精ひげ生やしていかにも悪そうって感じするもんね」

 尚子はそう言って窓の外を眺めた。そんな尚子の言葉に愛は腹が立った

「そんなこと無い! そんな事言うんだったら出てって!」

 勿論尚子は悪気があって言った言葉では無かった。けれど愛はそれに対して怒りを覚えた。

「ごめん、冗談だよ、冗談。何もそんなにむきになって怒んなくてもいいじゃん」

 けれど愛には許せる冗談と、許せない冗談があった。それからしばらくは愛と尚子の中に気まずい雰囲気が流れた。そしてそんな気まずい雰囲気に嫌気がさしたのだろか、尚子はまた来るから、じゃあねと言って部屋を出ていった。そして取り残された愛は後悔の中にあった。

 またやってしまったと言うのが本音だった。それはいつもの悪い癖だった。尚子は決して悪気があった訳じゃ無いと言う事は愛にも分かっていた。けれどその男を侮辱した言葉は、まるで自分に言われた様な気すらするように愛には感じられた。一体何故そんなにあの男がけなされることに腹が立ったのだろうか? 初めてあの男を見た時のあの目に、自分の姿を映しだしてしまったからなのだろうか? その理由は明確には分からない。しかしあの男には愛とか恋では無い特別な感情があった事だけは事実だった。けれどそれだけで唯一の友を失いたくなかった。きっと尚子のたまには息抜きしなきゃねって言っていた言葉は嘘だったのかもしれない。わざわざ自分の見舞いだけの為に塾をサボって来てくれたのかもしれない。なのにそんな尚子に対して愛は酷い事を言ってしまった。けれどいつでも後悔と言うものは失敗してしまった後から付いてくるモノだった。尚子の居なくなった病室はそんな愛の後悔という概念だけで埋め尽くされていた。しばらくすると午後の検診の時間がやって来た、カルテを持って病室に入ってきたのいつもの担当医とは違ってまだ若い医師だった。

「今日は君の担当医の林先生がお休みなので私が見ることに成った。まあセッションの時に何度か会った事はあると思うが一応初めての挨拶をするよ。私の名前は吉野、吉野不二男と言うんだ、ええっと君の名前は飯田愛、愛か、良い名前だね。それじゃ幾つか質問するけれどいいかな」

 愛はそんな吉野という医者に対して曖昧な返事をした。愛が知っている中でも吉野という医者は変わり者だという噂が病院中にあった。他の医者とは違いマニュアルに沿った治療はせずに、自分独自のやり方をするらしかった。おもに彼が行う治療の一つにコミュニケーション治療と言うものがあった。勿論他の医者でもコミュニケーション治療はあった。けれど大概の医者のコミュニケーション治療は質疑応答に近いもので、とてもコミュニケーションとは呼べるものでは無かった。その点、吉野と言う医者は違っていたらしい。ある時は患者が喋り出すまで三時間も無言のまま待ったと言う噂もあれば、半日以上患者に自分の身の上話を聞かせたと言う噂もあった。勿論そんな彼の批評はまちまちだった。病院関係者から見れば一人の患者をどれだけ見てあげられるかよりも、一日に一人でも多くの患者を見る方が名医とされていた。けれどそれは決して名医でも何でもない。ただ病院経営者からの一方的な要請なのだ。理由はいたって簡単なことだ。要するに治療費を効率よく稼ぐ方法だからだ。それは企業が掲げる生産コストの削減や利幅の増加に似たモノだった。けれど病院の中ではそれが正しくて、それが当たり前と成っていた。それはまるで患者をベルトコンベアーに乗せて幾つもの精密機械の中を通過させていくようなモノだった。勿論患者側の方でも意見は分かれた。そっとして置いて欲しい患者や処方箋だけ目当ての患者にとっては、そんな吉野のやり方は時間の無駄としか思わないのだろう。けれど本当に心が病んでいる患者にとってはそれは大切な時間であり、お金には換えられない時間だった。けれど愛にとってはどうだろう? 体重が戻ればそれでいい? いやそんな事は無い。むしろ体重なんてものは問題では無かった。痩せすぎていようと太りすぎていようと関係はなかった。愛にとって今必要なのはほんの少しの勇気だったのかもしれない。けれど愛にはその勇気へと踏み出す勇気すら無かった。 

「まず初めに体の体調の事を聞いてもいいかな?」

 吉野のその言葉に愛はまた曖昧な返事をしただけだった。正直愛はまだこの山のものとも海ものとも分からない男に心を許したわけではなかった。

「最近食事の方はきちんと取れているみたいだけだね。体重もかなり戻ってきているみたいだし、顔色も良さそうだ。けれど夜とかはちゃんと眠れている? なかなか寝付けないとか寝ても直ぐに目が覚めてしまうとか、悪夢にうなされるとか。その辺はどうなのかな」吉野は愛の脈を取りながら言った。

「白い蛇が・・・」

 愛は思わず口を滑らせそうに成った。

「蛇? 今白い蛇って言ったの?」

 吉野は確かめる様に言った。

「いや何でも無い。夜は眠れるし、もう体調も大丈夫だから診てもらう事なんて無いです」

 愛は慌てる様に言った。けれど吉野はそんな言葉を聞き流しながら言った。

「君はまだ確実に病んでいる。それは体の病気では無く心の病気なんだ。それは確かなんだ」

 愛はそんな吉野の断言的な言葉に少しムッとした。

「病んでなんていないわ。年に一度痩せちゃうのだって夏に向かってのダイエットのし過ぎよ。なのにそんな病人扱いしないで! ホント先生は失礼な人ね!」

 けれど吉野はやはりそんな言葉を聞き流し、今度は真面目な顔をして言った。

「君はきっと怯えて居るんだね」

「えっ」

 愛はそんな吉野の意外な言葉に動揺した。

「君はきっと今まで怯えていたんだね。そして一人で何もかもを背負おうとしていたんだね。その為に自分という殻を必死に守って、強がっているだけなんだ。けれどそんなに何もかもを背負う必要は無いよ。重ければ少し下ろせばいいだけなんだ」

 吉野の言葉は的を得ていた。けれどそれが的を得ていればいるほど、愛は素直に成れずに反発してしまうモノだった。  

「先生に私の一体何が分かるというの? 怯えているですって? 笑わせないで、私は怯えてなんていないし、病んでもいないの! まあもし病んでいるとしても、先生のようなやぶ医者には私の病気は治せないわ!」

 ・・・愛の言葉は偽りの言葉・・・愛の言葉は病んでいる言葉・・・そして愛の言葉は助けて欲しい願いの言葉・・・だった。

 吉野は愛の言葉を聞いて大きな溜め息をこぼした。

「そうだね。君の言う通りかもしれないね。私は確かに医者だ。けれど神様では無い。だから完璧や絶対なんて言葉は本質的には言えないのかもしれないな。まあこれは私事で愚痴の様に成ってしまうかもしれないが・・・」

 吉野はそう言いながらチラッと窓の外を見た。そして視線を静かに愛の所まで戻すとまた喋りだした。

「私は実は本当に救いたい人間を救えないでいるんだよ。勿論君や他の患者を本当には救いたくは無いなんて事じゃない。君たちも本当に救いたいと思っている。けれどその中でも特に救いたい人間がいるんだ。それは私の初めてと言っていいだろう。初めて私を友達だと思ってくれた、私の初めての親友なんだ。彼は十五年前ある出来事によって全ての心を閉ざしたんだ。それは彼にとっては重すぎる出来事だったのかもしれない。彼も君と同じように何もかもを自分だけで背負おうとする人間だった。いや彼は全てを背負おうとしたのかもしれない。善も悪も自分もそして他人のモノまでを。けれど人間の心には限界というものがあるんだ。普通はある段階で人間は少しずつ重荷を整理し処理をしていく、けれど彼は違った。全てを背負ってしまおうとした、また背負える位の強さが彼にはあった。けれどやはり彼も人間であって神では無かった。ある時、ある出来事がきっかけで彼のその全ては崩壊してしまった。彼の純粋過ぎるほど純粋な心は完全に崩壊してしまったのだよ。ある人はそれを馬鹿と罵る人間も居るだろう。ある人はそれを可哀想だと哀れむ人もいるだろう。けれど彼はそれをきっと否定するだろう。馬鹿と思いたい奴は笑っていればいい、そして哀れみなんて受けたくはないと。彼はそう言う人間だったんだよ。そして十五年経った今もまだ彼は必死に戦っているんだよ、歪んだ現実と。そして彼はまだ必死に守ろうとしているんだよ大切なモノを、汚れた現実の中で。けれどそんな彼を私は救えないでいるんだ。救うなんて偉そうな事は言えない、けれど手助けすら出来ないんだ。同じ仲間なのに!」

 吉野は声は少し震えていた。それは自分に対しての悔しさでもあったのと同時に、救いきれない友への優しさでもあった。

 愛はほんの少し吉野の言葉の意味を考えてみた。吉野の言うその男は全てを背負おうとする男だったと言う事だった。何処か似ている、自分の知っている人達と。そしてその結果その男の精神は崩壊してしまったと言う事だった。愛もその部分はほんの少し理解できた。何も悪いことはしていないのに、自分はいま苦しんでいる。いつでも誠実で純粋な心だけが傷付く。それはきっと十五年前も今も変わらないものなのかもしれない。そしてそれはきっと淋しいが現実的なのかもしれないと愛は思った。愛は吉野の顔を見た。吉野は窓の外を眺めていたが、その目に何かが飛び込んで来たと言うのだろか? あっちょっと待ってて、直ぐ戻るからと言って慌てるように部屋を飛び出していった。

 また一人取り残された病室、愛は吉野の眺めていたらしき所を眺めてみた。そして愛の目に映ったモノは例のあの男だった。

 例のあの男は壁を殴ったり蹴ったりしていた。ここからでは見えないがきっと拳や足は血だらけなのだろう。それでも男は壁を殴りつけていた。そしてその男の目は真剣だった。そしてそれと同時にその男の目は戦う目だった。きっと激しい幻覚と激しい妄想の中の敵(悪)と戦っているのだろうか? 必死に戦う男は全てを背負う男の様に感じられた。それからしばらく経ってからなのだろうか、先ほど目の前に居た吉野がその男の部屋に現れたのは。吉野は直ぐにその男を押さえつけようとしたが、なかなか押さえつけることは出来なかった。そして何人かの看護士も加わってようやくその男の自由は奪われる。それから精神安定剤でも注射されたのだろう、しばらくするとその男はピクリとも動かなく成った。そして吉野はその男の傷付いた体に優しく薬らしきものを塗って、それから包帯を巻いていた。その一連が済むと吉野はまたその部屋から出ていった。そしてしばらくするとまた吉野が愛の部屋に顔を出した。

「悪かったね。ちょっと患者の様子を見てきたんだ。まあ一応落ち着いたみたいだから、もう大丈夫。今度は君の事をちょっと診てみたいんだ。まあ何でもいい、話せることがあったら話してくれないか?」

 愛はそんな吉野に尋ねてみた。

「先生、もしかしてさっき言っていた友達というのは、あの部屋の男の人の事ですか?」

 そう言って愛は例のあの男の部屋を指さした。

「そうか、ここから見ていたんだね。まあ隠すことでも無いからハッキリ言うよ。そうだ君が言っているように私の大切な友達は彼なんだ」

 愛はその言葉を聞いて何となくこの吉野不二男と名乗る医者に心をほんの少し許せそうな気がした。

「先生の事を少しは信じていいのかな」

 愛のそんな震える様な小さな願いに吉野は微笑みながら頷いた。

「さっきも言った様に私は医者だけれど、名医でも無ければ、神様でも無い。けれど君がそれを望むのなら、私は全力で君の力に成るつもりだ」

 愛の希望で正式に吉野が愛の担当医に成ったのはそれから一週間後の事だった。その日は朝から秋の雰囲気の感じる爽やかな風の吹く日でもあった。

「どうだい? 調子の方は。体重もやっと四十キロ代に乗ったけれど、君の身長からすればまだまだ痩せすぎだな。まあ今日からは薬の量も少し減らして、多少時間は掛かるが自然療法でいこうかと思うんだが、どうかな?」

 吉野は愛の正式の担当医に成って、自分の治療方法を説明した。

「時間が掛かるって、どれくらい?」

「まあそうだな、君の場合体重的に見れば、もう一ヶ月もすれば退院できるだろう。けれど君はここ何年かの間、年に一度ある時期に成ると精神に支障が起こるようだね。時期で言えば春が過ぎた五月の後半からだろうか、まあだからその辺の事を明確にして克服しないと退院したとしてももまた同じ事の繰り返しであって、完全に完治したとは言えないだろう。だからまあその辺の事をきっちと直すには、一年とは言わなくても、半年位は見て欲しいな。まあこれも一つの目安であって、早ければもっと短くなるし、遅ければもっと長くなる。まあ簡単に言えば君次第ってとこかな」

 君次第・・・。愛は自分の心に尋ねてみた。・・・あんた次第だってよ・・・。けれどその答えは一番知っているはずの自分自身にもまだ分かるモノでは無かった・・・。

第二章・・・変貌・・・

 愛の症状に変化があったのは、吉野が正式に担当医になってから一週間が経ったある日の事だった。それまでがいい具合に事が進んでいただけにその事は吉野にとってそれは衝撃的な事だった。愛の病状の変化の第一報聞いたのは正午過ぎの吉野が昼食をとっている時のことだった。ナースセンターの奥の小さな休憩室の中で吉野は、昼食の仕出し幕の内弁当を食べていた。いつも食べている仕出し弁当、妻の居なかった吉野にとっては病院の近くの惣菜屋の仕出し弁当が吉野にとってのいつもの昼食メニューだった。

 午前中の診察は吉野流の診察を行った為、四人しか診察出来ていない。だから午後は早々から診察を始めなければ今日中に全ての診察を終えることは出来なかった。吉野は残りのご飯をかき込んだ。そんな時だった、ナースセンターの方から吉野の名を慌ただしく呼ぶ声が聞こえてきたのは。そしてその声を聞けばそれが緊迫した雰囲気だと言うことだけは伝わってきた。

「どうした? 何かあったのか?」  

 吉野はその慌てている看護婦に向かって言った。

「515号室の飯田さんが暴れて居るんです。今二人の看護婦が彼女を押さえ付けているんですが、とても私達では手に負えなくて」

 515号室の飯田というのは愛のことだ。吉野はとりあえず現場に駆けつけることにした。

 515号室の扉を開けると、愛は二人の看護婦に押さえつけられてはいたが、暴れる力はとても体重四十キロ前後の少女とは思えない力だった。それに顔の表情も苦しみや恐怖に満ちた表情は、ここ一週間の愛の可愛らしかった顔とは打って変わって別人の様な顔になっていた。愛は何かを叫んでいる、けれど何を言っているのかはハッキリとは聞き取れない。

「シロ・アタ・マヘ・・ビガ! ・ソコ・・ダメ!・・ダメ!! ヘビ! ヘビ!・・カミ・・コロシテ!!!」

 支離滅裂な愛の言葉。殆ど叫びに近かったせいもあり周りの人間にはその言葉自体は理解が出来ない。けれど緊迫した雰囲気、そして愛が恐怖に震えている事だけは分かった。吉野達は愛を押さえつけた。さすがに半狂乱になっている愛もその中では無力に等しい。けれどそれはあくまでも一時のもので、手を離せばまた愛は暴れ出す事に過ぎなかった。吉野は一瞬ためらった。医療マニュアルによれば、こんな場合、特に自虐的行為、若しくは致命的攻撃性がある場合は強力な精神安定剤を投与しなければならない。勿論それによって患者は急激な脱力感に襲われて、眠るように静かには成る。けれどそれは最終手段の場合であって、出来ることなら薬を使わずに治療したかったと言うのが吉野の正直な気持ちだった。愛は体を押さえつけられても、尚叫び続けている。愛の発する言葉は相変わらず支離滅裂だったが、その中には幾つかの形容詞や単語らしき言葉が聞こえてくる。・・・シロ・・・、白の事だろう。・・・タマ・・・玉の事なのか? ・・・ヘビ・・・、蛇の事なのだろうか? そして・・・カミ・・・カミは神の事なのかもしれない、吉野は何が言いたいんだと愛に問い掛けてみた。けれど吉野の問い掛けに愛は応えてはくれない。一方的な叫び、恐怖への叫び、そして憎しみへの怒り。愛の現在支配しているモノはそんな感情なのだろう。吉野は必死に愛の名前を呼んだ。けれどその言葉は今の愛には届かない。吉野は悩んだ末に、安定剤を投与する事にした。それは愛をこれ以上この苦しみの世界を漂わせたくないそんな気持ちの事だった。

 愛に薬を投与してからどれくらいの時間が経ったのだろうか? 時計は夜の八時を過ぎていた。愛は成れない薬の効果なのだろか、混沌とした深い眠りに付いていた。吉野は愛の病室を見回り終えると、自室の研究室で愛のカルテを眺めていた。飯田愛のカルテによれば愛が初めてこの病院に入院をしてきたのは、五年前の七月の中旬頃の事だった。カルテには治療内容や症状と同じようにその経路までハッキリと書かれていた。愛は七月の初めに急患として同じ都内にある総合病院に入院をしていた。理由は暴力的行為(推測)による全身打撲と骨折だと言うことだったらしい。愛は意識の無い状態で、都内の世田谷公園付近で倒れていた所を近所の住人が発見し救急病院に運ばれたらしかった。けれど愛の意識は回復はするが、その時に受けたであろうトラウマ(心的外傷)が原因の重度の精神障害があった。それがこの病院に再入院した大きな理由だった。・・・重度の精神障害・・・愛の症状の大きな特徴としては人間恐怖症と言語障害があった。人間恐怖症とは字のごとく人間(他人)に対しての嫌悪感や、不信感が起こり、その結果恐怖を感じることだ。愛のカルテに書かれていた症状も診察の際にかなり怯え震えていたと言うことだった。それと言語障害、この言語障害には色々な症状がある。何不自由無く話をしている様に見えていても、一つ一つの言葉に言語障害を感じる人間もいれば、何一つ自分の思い通りの事(言葉)が話せない人間までいる。愛の場合は全く言葉を発せられない、言語失落的症状の様だった。この症状は重病な症状だ。理由は幾つも考えられる。極度的な虐待、絶望的な失望、そして暴力的な強姦。理由を考えればきりがない。吉野は少し前の愛の事を想いだしてみた。愛は良く喋ると言う訳でも無かったし、決して言葉遣いが良いわけでも無かった。けれど確実に言葉は発していた。勿論それが自分の思い通りの言葉かどうかは分からない。けれど「先生のこと少しは信じてもいいのかな?」と言った言葉には真実味が感じられた。センセイノコトシンジテイイノカナ? センセイノコトシンジタイヨ? センセイタスケテ? センセイワタシヲタスケテ? センセイノコトシンジルカラ、ダカラワタシヲタスケテ・・・。

 一体この子の過去には何があったのだろうか? しかしカルテにはそこまでの事は記されていなかった。きっと当時の担当医はそこまでは検索はしなかったのだろう。精神病や心身病と言うのは奥が深い病気だ。そして分かりづらい病気でもある。完治したのかしていないのかも医者には明確には分からなければ、当事者の患者自体にも分かりづらいものなのだ。それ故に奥が深い。けれどそれに対しての現代の医療機関は非常に狭く浅いものなのだ。この国では昔から精神病の研究は後発と成っている。歴史も浅ければ、受け入れる体制も狭い。だから必然的に患者を効率よく循環させなければ成らない部分が多い。その為に完全に完治していない患者を退院させなくては成らない現状があった。その結果一度精神病院に入院までした患者が完全に完治しないままに退院をして心身失態の状態で殺人事件などを起こす事も多々あった。勿論吉野はそんな現状に満足しているわけではないが、それが現実なのだ。そして愛も結局の所は、社会に対しての極度の適応不可ではなかったと言う理由だけで退院を余儀なくされた。まだ何一つとして解決出来ないままに。

 吉野は今日の出来事の事をもう一度考えてみた。愛が暴れているいと一報を聞いたのは昼食後の事だ。その時間帯に何かきっかけに成ることがあったのだろうか? 例えば昼食に愛の無意識の潜在意識の中の恐怖と言う感情に与える影響があった様なものがあったとか。吉野は壁に掛かっている食事予定表を見てみた。今日の昼食は鱈の薄口醤油付けと肉じゃがとポテトサラダと言う至ってシンプルなものだった。きっと昼食自体には何の問題も無かったのだろ。なら一体何が彼女の精神にきたす原因になったものは何なのだろか? 愛の言葉にはどんな意味が含まれていたのだろうか? 吉野は愛の叫んでいた言葉一つ一つを思い出してみた。愛はシロと言う言葉を言っていた。この解釈は色の白できっと間違いでは無いだろう。白い何かが愛にはきっと見えていたんだ。白で連想出来るモノと言えば、白い壁、白いシーツ、そして病院の建物全体がある。けれど当然愛が言いたいことはそんなものでは無い気がする。そして他の言葉のことも考えてみた。タマと言う様な事も言っていた。けれどそれは玉では無い気がした。錯乱状態の言葉なのでちゃんと聞き取れなかったのだろう。けれどちゃんと聞き取れた言葉が幾つかはあった。それがダメと言葉とコロシテと言う言葉と、そしてヘビだ。言葉関係こそ分からないがこの言葉は確かな言葉だった。多分長年の感からすればこの言葉がきっかけになったわけでは無いとは思う。何かきっかけがあってこんな事を叫びだしたのだろう。そしてその時の愛にはそれはまるで地獄絵の様に写っていたに違いない。けれどきっかけはどうであれ、愛はどうやら蛇の幻覚に襲われたらしかった。・・・ヘビ・・・蛇と言う生き物には色々な因果関係がある。例えば夢判断もその一つだろう。蛇というものは元々は何かに例えられることが多い。一部では蛇は幸福の前兆だという考え方もあるが、それは蛇という生き物が与える恐怖を打ち消すために考えられた逃げ道の様なものなのだ。やはり本質的に蛇は悪、恐怖の源であることが多い。心理学の世界では昔から蛇が表す恐怖は死だった。これは色々な民話や夢判断からも分かっていることだった。けれど当然それが全てでは無い。何かを蛇に置き換えている場合もあるという事だ。例えばロープの様な細長いものがある。過去の患者で父親の首吊り死体を見たことによってロープ恐怖症になった少年を吉野は知っていた。彼の場合は死とロープとが重なってやはり蛇の幻覚に襲われていた。愛の場合もそうなのだろうか? 何か過去に死かロープ(長いもの)的存在のものに心的外傷を受けた可能性はあった。けれどそれはあくまでも仮説であって憶測の域を越えるものにはならなかった。吉野は愛のカルテの中に何か引っかかるものを感じた。それはまだ愛が初めて入院をした頃の記述だった。

 記述を読むと愛は蝉に悩まされていると言う事だった。蝉の声を聞くととても怯えたと言う内容なのだけれど、蝉という言葉は精神障害者の中ではあまり聞き慣れない言葉だった。過去の例としては蝉が頭の中に存在すると言う話は聞いたことがあったが、蝉に怯えたと言う例は聞いたことが無かった。そもそも蝉と言う生き物は恐怖の対象になりにくいものなのだ。勿論鳴き声は大きいし、形もグロテスクではある。けれど恐怖の対象に成る例はあまり無かった。しかし過去の愛は蝉の声に敏感に反応して怯えていたと言う。・・・蝉と蛇・・・因果関係は複雑だ。少なくとも蛇は別としても蝉は夏に成ればそこら中にいる。勿論今も病室でも蝉の声は聞こえているはずだ。けれど今現在愛は蝉の声に怯える事は無かった。それは症状が軽くなったと言う事もあるが、やはり抜本的な部分の要因では無かったと言う事が考えられる。蝉はあくまでもきっかけの一つであって、本質的な事はまだまだもっともっと奥にあるという事は事実だ。やはりこれ以上は本人に聞くしか術が無いのかもしれない。吉野は明日愛が落ち着いている様だったら、その辺の事を少し聞くことにした。

 翌日は昨日の出来事がまるで嘘だった様に朝から良く晴れた日だった。吉野は午前中の診察を早めに終わらせて、午後からは愛の治療の時間を多めにとることした。昼食を早めに終わらせると吉野は愛の待つ、515号室に向かった。吉野が515号室の扉を開けると愛はベットに腰を掛けて窓を全開にして窓の外を眺めていた。そして外からは微かに蝉の鳴き声が聞こえてきた。やはり蝉の鳴き声は今の愛にとっては何の抵抗も無いものに成っているようだった。

「どうだい? 今日の調子は?」

 吉野は愛の腕に付けられた点滴を確認しながら愛に尋ねてみた。愛は吉野の事に気が付いたが適切な言葉が見つからないといった様に言葉を選んでいた。吉野はそんな愛を見て気を使わせない様に言葉をかぶせた。

「無理に話さなくてもいいよ。昨日の今日の事だから頭が混乱しているんだろう。だから無理に喋らなくていい。けれどもしも話せる事があるんだったら、少しでも話して欲しいんだ。私も正直言って今は少し混乱しているんだ。今まで君のあんな所を見たことが無かったからね。きっと嫌な事でもあったのかな?」

 吉野はさりげなく愛の顔を覗いてみた。愛は相変わらず外の景色を眺めていた。それはまるで昨日の出来事が嘘の様に感じられた。しばらくの沈黙を挟んで愛は呟いた。

「先生、正直言って私にも分からないの。昼食をとった所までは記憶があるの、けれどその先のことは全く覚えていない。今朝昨日のことを看護婦から聞かされた時は私自身がビックリしたくらいなの。本当に私は昨日そんな事があったんですか?」

 愛は全くと言って良いくらい昨日の事は覚えてはいないようだった。それは一種の健忘症に近いものなのかもしれない。けれど本当に健忘症にかかっているのなら、愛の病状はカルテに書かれていた以上に深刻なものなのかもしれないと吉野は思った。

「覚えていないのか、じゃあ少しだけ整理して考えてみようか。君は昨日の出来事を何処まで覚えているのかな? あの錯乱状態の所までは思い出せないとしても、その前までで覚えているだけでいいから話して欲しいんだ」

 愛は吉野のその問い掛けに遠くの空から答えを手繰り寄せるように小さく話し始めた。

「昨日私はいつもの様に本を読んでいたの、そしていつもと同じ様に音楽を聴いていたわ。本当に何も変わらない一日だったの、けれど気が付いたら私は点滴を打たれてこのベッドに眠らされていたの」

「気が付いたら?」

「そう気が付いたら・・・」

「そうか、じゃあ昨日の事は殆ど覚えていないと言う訳だね」

「ええ」

「そっか、それじゃしょうがないな。それじゃあ話しを変えるけど、前に同じ様な事は無かった? 気が付いたら傷だらけでいたとか、知らない場所に居たとか、そう言った類の事でいいんだけど」

 愛は吉野の顔色を伺いながら答えた。

「私がこの病院に初めて入院したときやっぱりそう言う症状だったわ。気が付いたらこの病院のベッドに寝かされていたの。それはまるで夢でも見ている様だったわ」

 吉野は愛のその言葉の意味を考えて見た。愛は自分がどういう理由でこの病院に入院したのか全く分からないと言う事なのだろう。けれどその理由が分からない限り愛の病状を完全に克服したとは言えない事になる。吉野は愛に違った質問をしてみた。

「じゃあ蛇って言うものに対して何か感情はないかな?」

「蛇ですか? 蛇は嫌いです。蛇はいつも私を苦しめるものなの。時々蛇に苦しめられる夢を見るわ。それも白い蛇、白い蛇が私を追いつめるの、けれどそこから先はいつも分からずじまい、だけど先生? そんな事聞いて何か意味があるのですか?」

 吉野は愛のそんな疑問に答えた。

「あるよ、大いにあるよ。今の私には君を救う為に何でも知っておかなくちゃならないんだ、例えそれがどんな小さな事だとしても。それじゃ話しは変わるけれど蝉に付いては何か特別な感情があるって事はないかな?」

「蝉ですか? 蝉はいつもこの時期になればそこら中で鳴いていますよ。蝉だけでは特別な感情はないけれど、いつも夢の中では蝉がけたたましく鳴き出すのそうすると記憶が飛ぶ事があるわ」

 吉野は頭の中で愛の言葉を一つ一つ整理してみた。夢の中で蝉が鳴き出すと記憶が飛ぶ、そして白い蛇にもまた似たような現象が起きている。ならば一体蝉と蛇にどんな共通点があると言うのだろうか? 愛から聞き出す事には限界がある。愛の表情は蛇と蝉の話しをしてから険しく成りつつある。これ以上の事は今日は聞かずにおこう。時間はまだたっぷりあるんだ。焦らず行くのが吉野の治療方法の一つでもある。吉野は愛にじゃあ続きはまた明日にしようと言い残して部屋を出ていった。

 吉野は部屋を出て研究室に戻った。研究室に戻ると机の上には愛の資料が置き去りにされたまま無造作に置かれていた。そして吉野はその無造作に置かれている資料をもう一度目を通すことにした。

 確かに愛がこの病院に入院している理由は一つだった。それは摂食障害、原因はいくらでも考えつく。異性から太ったねと言われただけで摂食障害になる子もいれば、もっと深いトラウマで摂食障害に陥る人もいる。原因は様々だけれど、どれも本人にとっては深刻な問題となる。要するにどうして成ったかが分からなければ抜本的解決には成らないのが事実だ。愛の場合原因はどうであれ白い蛇と蝉に何か問題があるらしい。そしてそのきっかけと成ったのが暴力的行為だと言う事だ。ならば一体愛はどんな暴力的行為を受けたと言うのだろうか? 想像は大体つく一番考えられる事は強姦だ。けれどそうなってくると話しは複雑に成ってくる。愛は一体何故この病院に入院しているのかも分からないと言う。ならば当然強姦された事も覚えていないはずだ。だとしたならば愛が受けたトラウマは相当大きなものと言う事になる。それに愛自信にその出来事を再確認し、それを乗り越える力が無ければ完全に立ち直ったと言う事は言えない気がする。今の愛ではどうだろうか? 吉野が見る限りでは今の愛にその事実を再確認し、それを乗り越える程力があるとは思えない。勿論今考えていることは全て推測に過ぎないけれど、そう考えれば考えるほどそれが一番可能性をおびていると思えてしまう。しかしどちらにしろ愛が完全復活するのには時間が掛かると言う事だけは分かっている。吉野は愛の資料を閉じて目を瞑ってみた。そこには広大に広がる世界が広がっていた。そこでは人間の大きさなんて一握りの大きさに過ぎない、吉野は人間のちっぽけさを感じずにはいられなかった。

 翌日からは愛の治療時間を多めに取ったシフトで動き出す事にした。吉野は愛の資料を頭に叩き込んで515号室に入って行った。

「どうかな、今日の調子は?」

 愛は読みかけの本をベッドに置いて吉野に挨拶をした。

「おはようございます。今日は体調もいい具合です」

「そうか、それは良かった。まあ昨日もそんなに調子が悪く無かったみたいだし、このままいけば早く退院出来そうだね」

 愛は吉野のそんな励みに俯いたまま呟いた。

「そうですか・・・」

「どうした? 早く退院出来ることが嫌とでも言いたそうだね」

「いえ、そんな事無いんです、けど・・・」

「けど?」

 愛は吉野そんな疑問にやはり俯いたまま答えた。

「いつもなんです。いつもそうやって退院するんですが、一年経つと結局元通り、元通りにこの病院に入院させられるんです。だから今回も不安で・・・」

 吉野は愛のそんな不安感をぬぐりさる為に言った。

「大丈夫! 私は今までの医者とは違う。君が完全に立ち直るまで、見守る気持ちでいるんだ。だから再発は無い。完治してこの病院から退院するんだ。分かるかね? 完治だよ完治! だけどその前に君自身もそれを乗り越える努力が必要なんだけどね」

 愛は吉野のその言葉に不安感も無くなった様に答えた。

「はい!」

「よおし、いい返事だ。じゃあ早速今日の診断をしよう。まず初めに君の事を少しでも多く理解したいと思っているんだ。だから君の事を話して欲しいんだ」

「私の事ですか?」

「そう君の事、なあに難しい事を聞こうって言う訳じゃ無いんだ。簡単な事からでいい、例えば君の趣味とか」

「趣味ですか? 趣味は本を読んだり音楽を聴いたり・・・」

 愛はそこまで言って言葉につまった。正直言って愛には人に自慢できる様な趣味を持っていなかった。読書や音楽鑑賞なんて誰でもやっている事、もっと他に人に言える趣味があるはず、けれど今の愛にはそれ以外見つける事が出来なかった。

「いいんだ、そんな無理をして探さなくても。読書や音楽鑑賞だって立派な趣味の一つだよ。だからそんなに気落ちしないで、胸を張って答えてくれればいいんだ。それじゃあ話しを続けよう。例えばどんな本を読むのかな? 先生も読書はよくする方だから君の読む本を知っているかもしれないからね」

「先生磯崎衣鶴って知ってます?」

「磯崎衣鶴、ああ知ってるも何も友達だよ。この病院にもしょっちゅう来るよ。そうか君は衣鶴の本を読むのか、それは奇遇だね」

「先生磯崎衣鶴さんと知り合いだったんですか? それはすごい! じゃあ先生時には正義の様に・・・と言う本を読んだ事ありますか?」

「ああ勿論読んだよ。ちょっと恥ずかしいんだが、あそこに書かれていた吉野不二男って言う男が居ただろう、あれは私の事なんだ」

「ええそうだったんですか? まさか実名で書かれているとは思いませんでしたよ。じゃあひょっとして渡辺正義って言う人は例のあの病棟の男の事じゃないですか?」

「ここまで知られてしまうと隠す必要ないな、そうだよ彼が渡辺正義だ」

 愛は呆気にとられているように唖然としていた。まあ呆気にとられるのも無理はない、あこがれだった渡辺正義が例のあの男だったのだから無理も無い。  

「じゃあやっぱりあれは本当にあった話しなんですか?」

「ああ、当然一部脚色はあったが、殆ど本当にあった話しだよ」

「じゃあ磯崎衣鶴さんは殆ど毎日お見舞いに来るあの髪の長い綺麗な人なんですか?」

「良く知ってるね、そうだよ彼女が衣鶴だ」

 愛はやはりキョトンとしたまま、まるで狐につままれた様な表情を浮かべていた。それもそのはず、愛にとっては全てがあまりにも現実離れしすぎていて、理解するのには時間が掛かるものだった。しばらくの沈黙が続いたが、それを破る出来事があった。それは渡辺正義のいつもの出来事、また暴れ出している事だった。吉野は慌てる様にちょっと待ってて、と言い残し部屋を飛び出して行った。勿論行き先は渡辺正義の元だった。そして一人部屋に取り残された愛は今の出来事を整理してみることにした。あの純粋な目をした男が渡辺正義、そして毎日の様に看病に来ている女性が磯崎衣鶴、そして何より自分の担当医が吉野不二男、どれだけ整理して考えても直ぐに理解できるものは何一つ無かった。

 吉野は部屋を飛び出すと渡辺正義の待つ部屋に一目散に駆け込んだ。吉野が飛び込むと正義はちょうど二人の看護婦に取り押さえられているところだった。

「また発作が起きたんだな」

 吉野は看護婦にそう言った。

「ええ、今朝までは調子が良かったんですけど、ついさっき急転して」

「そうか、とりあえずまた安定剤を注射するしかないようだな」

「ええそうしましょう」

 吉野は安定剤の入った注射器を渡辺正義の腕に打った。

 安定剤を打たれた正義はしばらく暴れていたが、そのうち効果がでてきたのだろか、落ち着きを取り戻していった。吉野はそんな正義を見ていたたまれない気持ちになった。果たして自分の治療方法は間違っていないのだろうか? 吉野は自分に問いかけてみた。けれどその答えは見つからなかった。

 吉野が愛の部屋に戻って来ると愛は先ほどの興奮がさめやまぬ様に吉野に駆け寄って来た。

「先生、渡辺正義さんの様態は大丈夫だったんですか?」

「ああ、今は安定剤の効果があって眠っているよ。けれどまたいつまた発作が起きてもおかしくない状態だから注意は禁物だけどな」

「そうなんですか、でもきっと良くなりますよ。私そう言う感が鋭いんです。だからきっと良くなりますよ」

「そうだといいんだが・・・」

 吉野はため息混じりにそう答えた。正直言って吉野には自信が無かった。今まで何度か治る兆しがなかった訳では無い。けれどそんな兆しすら今の吉野にとっては皆無に等しかった。

「先生、信じなきゃ治りませんよ。私と約束したじゃないですか、絶対に完治させると。だから渡辺正義さんの場合だって信じなきゃ、先生が音を上げたら治るものも治らなくなっちゃいますよ」

 愛の言っている事は確かだった。けれど十五年間正義を見続けてきた吉野にとっては正直素直に自信が持てないのも事実だった。

「そうだね、君の言う通りだ。今ここでくじけたら私の負けだ。全力で行かないとダメだね」

「そうですよ、先生。先生が弱音を吐いたら負けですよ」

 吉野は愛に慰められて少し元気が出て来た。けれど吉野が治さなければならない患者は正義以外にも居た。

「まあ、正義の事は置いといて、君の診断もしなくちゃならないね。君の趣味は大体理解出来たよ。でもまさか君が衣鶴の本が好きだなんて奇遇だったよね」

「そうですね、こんな偶然ってあるんですね。私びっくりしましたよ」

「君が驚くのも無理はない。正直言って私も驚いているくらいだよ。衣鶴の作品は確かに十年前くらいは一世を風靡したけれど、今もまだ読者が居たなんてきっと衣鶴自身も喜ぶに違いないな」

「そうですか、じゃあ磯崎衣鶴さんに会ったらよろしく言っといてください」

「そうだね、よろしく言っておくよ。それじゃあ話しが逸れたけれど本題に行くとするか」「ええ」

 愛は素直に返事をした。それを聞いて吉野は複雑な気持ちになった。正直言ってこんないたいげない少女が強姦されたかもしれないと思うと吉野は複雑な気持ちにならざるおえない。出来る事ならそうで無いと信じたい気持ちがそこにはあった。

「じゃあ早速聞くが、君は白い蛇を見ると記憶が飛ぶと以前言っていたね。具体的にその蛇はどんな蛇なんだい?」

 愛は事細かく説明した。

「じゃあ君の言うことを整理して考えるとこう言う事だね。まず蝉が鳴き出してそのうちムカデや蜘蛛が現れてそして逆三角形の頭をした白い蛇が現れるとまあこんなところかな」

「ええ」

 吉野は愛の言葉を整理して考えてみた。蝉が鳴き出すと言う事は蝉が鳴き出す頃の季節と言う事になる。ムカデや蜘蛛もそんな季節には現れても不思議ではない。最後に白い蛇だ。逆三角形の頭を持つ蛇、それは男性のシンボルを示しているのかもしれない。そうなってくれば愛が強姦された事と一致する。けれど吉野はその事をさけた。今の愛にはその事を理解し乗り越える事は無理だと言う事から吉野はその話題を避ける事にした。吉野はその後他愛もない話しをしてその場を去った。

 吉野はその後正義の元に向かった。正義の部屋に着くと丁度磯崎衣鶴が見舞いに来ているところだった。

「不二男どうなの正義の様子は」

 衣鶴は吉野を見つけると直ぐにこう聞いた。

「どうなのって相変わらずだよ。良くもなく悪くもないってところだな」

「じゃあ見通しはまだ出来てないってところなんだね」

「ああ、それより衣鶴、君の本をまだ大切に読んでいる患者に会ったよ」

「えっ、あたしの本を読んでいる患者に。それは嬉しいわね。それじゃサインの一つでもプレゼントしてあげようかしら」

「そうだね、きっと喜ぶと思うよ」

 吉野はそう言って愛の病室を見上げた。そこにはこちらをずっと伺っている愛の姿があった。吉野はそんな愛に手を振ってみた。愛も初めは恥ずかしいのだろうか俯いたままだったが、そのうち小さく手を振って答えてくれた。衣鶴はその一部始終をみて吉野に聞いた。

「ひょっとして私のファンってあの可愛らしい子の事?」

「ああ、そうだよ名前は飯田愛って言うんだ」

「飯田愛・・・。可愛らしい名前ね。でも何であんな可愛らしい子がこんな精神病院に入院しているわけ?」

「理由はまだハッキリとは分からないが強姦された可能性があるんだ」

「強姦? それじゃあ幸子の時と一緒じゃない、でも彼女は生き残った。幸子とは違って」「正確に言うと生き残ったと言うよりも死ぬ術が無かったと言う方が適切だろう。もしも推測が正しければ彼女が強姦されたのは中学一年生の頃だ。その頃の人間はまだ自殺と言う手段を知らない。だから彼女の場合も自殺すると言う選択肢が無かったと言う事になる」「選択肢ね・・・」

 衣鶴は呟いた。もしも衣鶴が同じ状況になったとしたらどうだったのだろうか? 中学一年生はやっぱり自殺するには早すぎる年齢だった。

「まあ何はともあれ彼女は生き残った。それはある意味すばらしい事だったのかもしれない。もしも自殺なんかしてしまえばそれまでだ。死ぬ事より生きる事を選んだ彼女に俺は何かをしてあげたい気持ちだよ」

「何かね・・・」

「そうだよ、何だっていい。俺の出来る全てだよ」

「そうか、吉野は一応医者だったんだよね」

「一応は余計だよ」

「はいはい。でも治る見込みはあるの?」

「正直言って分からない。このまま治らずに行くかもしれなければ、最悪自殺する可能性もある。俺達医者の力には限界がある。出来れば衣鶴、君の力を貸して欲しいんだ」

「私の力?」

「そうお前の力。まあそんなに深く考えなくてもいい。自然体のお前で良いと思うよ」

「自然体ね・・・」

「そう自然体。自然体で彼女と接触してもらえばいい。きっと彼女お前には心開くと思うから」

「そうかしら。それじゃあやってみる。正義の見舞いの暇つぶしでいいのね?」

「それでいい。それくらい軽い気持ちで接して欲しいんだ」

「分かった」

 衣鶴は吉野の助け船に手を貸す決断をした。それから愛との接点が築きあげられていった。

第三章・・・奇跡・・・

 それから三日後初めて愛と衣鶴が顔を合わせた。

「今日はとびきり特別な人を紹介するよ」

 吉野が愛に向けて言った。

「は〜い。初めまして磯崎衣鶴です」

 衣鶴は部屋に入ってくるなり明るく自己紹介をした。

「初めまして飯田愛です」

「あなたが私の本をいまだに読み続けてくれて居る、愛さんね。まずはお礼を言うわ。ありがとう」

「お礼だなんて、ホント面白いから読んでいるだけです。だからむしろお礼を言うのならこちらの方です」

「まあ何はともあれ私達は出会った。これから時々遊びに来るけれど良いかしら? 読者の生の声を聞ける機会って案外少ないのよ。これからはドンドン生の声を聞かせてもらいたいの」

「ええ、私の方こそ遊びに来て頂くなんて光栄です。だからこちらこそよろしくお願いします」

 愛は嬉しかった。憧れだった磯崎衣鶴が今こうして自分の目の前に居る。そしてこれからも遊びに来てくれると言ってくれている。それだけで愛の胸は躍った。

「じゃあ商談成立ね。これからよろしくね」

 衣鶴はそう言って愛に手を差しのべた。愛はそれに応える様に手を握り返した。そしてそれから愛と衣鶴の生活も変わりはじめて行くとはこの時には誰も予想できなかった。

 衣鶴は部屋を出るなり吉野に言った。

「こんなもんで良かったのかしら?」

「ああ充分だよ。」

「でも本当に可愛そうだね。あんなに可愛い子が病で苦しまなくちゃいけないなんて。代われるものなら代わってあげたい気がするわ」

「そうだね。心の病気って言うのは純粋な人ほどなりやすい病気なんだ。だから正義や愛の様に心が純粋な人間が苦しむはめになる。俺だって今まで何人もの患者を診てきた。でも結果代わってやる事なんて出来ないんだよ。例えどんなにその人間が苦しんでいようとも。だけど手助けは出来るんだ。その人が完全に病気に勝つまでの」

「そうね。手助けは出来るんだね。私頑張るわ。正義や愛ちゃんが完全に治るまで」

「助かるよ。そう言ってくれる事。それだけで俺も頑張らなくちゃって気が起きる。本当にありがとうな」

「お礼を言うのはまだ先でしょ。まだ何も変わって無いんだから」

「そうだったな。まだこれからだよな」

「そうよ。これからよ」

 衣鶴はそう言って足早に正義の部屋に向かった。正義はいつもと変わりなく膝を抱えたままうずくまっていた。

「ねえ正義、今日時には正義の様に・・・って本を読んで感動したって言う女の子に会ったよ。正義はどう思う? その女の子はもしかしたら強姦されたかもしれない女の子なの。でも私は治してあげたいの。私が何かしてあげられる事があるのなら何でもしたいの。正義も一緒だよね。その為に正義は十五年間戦い続けているんだものね」

「・・・」

 正義は相変わらず無口のままうずくまっていた。でも正義の目からは涙が零れるのを衣鶴は見逃さなかった。

「吉野! 正義が泣いてるよ! 今の私の問いかけに応えて泣いているんじゃないの?」 衣鶴は慌てて吉野に医学的見解を問いただした。

「そう慌てるな。正義が涙を流す事なんてそう珍しい事ではないだろう。ただの偶然という事もある。ただもしも衣鶴の言葉を理解して涙を流しているのが本当だとしたならば、それは奇跡に近い事になる。まあどちらにしろ正義の回復はまだまだ先の事になるだろうけどな」

「そうなの? 本当にまだまだ先の事なのかしら。ハッキリした理由は無いけれど私にはきっと近い将来正義が元の姿に戻る様なそんな気がするの」

「俺だってそう信じたいよ、けれど医者は憶測だけで決める事は出来ないんだ。しっかりとした根拠がないと」

「根拠ね・・・。根拠は無いけれど直感がするの。正義は少しずつ元の姿に戻っている様な気がするのよ」

「俺だってそう思いたいよ。だって正義は十五年間戦い続けたんだからもうそろそろいいんじゃないかって気がする。けれどこの十五年間正義はあの頃の事を一度として話しをしたことが無いんだ。一度として」

「そうか・・・。それじゃまだまだ先の事になるって言う意見ももっともかもしれないね」 衣鶴はため息混じりにそう答えた。けれど奇跡と言うものは案外近くにあったりするものだった。

 次の日衣鶴は正義の部屋に入って来た。勿論夕べの奇跡なんて知らないままに。

「おはよう」

「なあ衣鶴。聞いて驚くなよ。正義が夕べしゃべったんだよ。あの頃の思い出の一部を」「あの頃の思い出?」

「そう、あの頃の思い出。昨日をお前が帰った後、正義が暴れたので安定剤を注射しようとした時に痛いって言ったんだよ。それで俺は詳しく聞き出すと。心が痛い幸ちゃん・・・って言うんだ。その意味分かるか? 正義は確実にあの頃の記憶が戻って来ている。お前の言う通りだったよ。このまま行けば案外早く治る可能性も出てきた」

「じゃあ正義が治るのも時間の問題って事になるわね」

「まあまだハッキリとは言えないが確実にここ数日間は進歩はしているよ。出来る事ならこのまま上手く行けば良いんだがな」

「正義、聞こえる? 私だよ磯崎衣鶴だよ分かる? 夕べは記憶の一部が戻ったみたいじゃないか。分かる私のこと? 衣鶴だよ、磯崎衣鶴だよ」

 衣鶴は何度も正義に問いただしてみた。けれど答えは返って来なかった。

「吉野本当に夕べ正義はしゃべったの?」

「ああ、微かだけど確かにしゃべった」

「でも今はしゃべんないよ」

「ああ、夕べも心が痛い幸ちゃん・・・って言った後は何もしゃべらなかった。それにそんなに急に色々しゃべり出すのには無理があるよ。徐々に徐々にだよ」

「そっか。私も早く正義の声聞きたいな。でも焦りは禁物だね。吉野の言う通り徐々に徐々にだね」

「ああ、そう言う事だ」

「それじゃあ私は愛ちゃんの所にでも行こうかな。吉野もしも正義がしゃべり出した時は直ぐに呼びに来てよ」

「ああ分かったよ。直ぐに呼びに行くから愛のことは頼んだよ」

「ええ、任しといて」

 衣鶴はそう言いながら愛の部屋に向かった。衣鶴が愛の部屋に着くと愛は音楽をヘッドホンから聴いている所だった。

「おはよう。元気だった」

 愛はヘッドホンを耳からはずして答えた。

「おはようございます」

 衣鶴は窓越しに立って愛に質問した。

「夕べはちゃんと眠れた?」

「ええ、それなりに」

「それは良かった。あっそうそう夕べは正義が十五年ぶりにしゃべったのよ。あの頃の思い出を」

「そうなんですか、それは良かったですね。私正義さんとは直接に会った事は無いんですが、いつもこの窓から眺めているんです。だから何となく他人事じゃない気がして」

 衣鶴は愛に言われて窓から正義の部屋を覗いて見た。正義はいつもと変わりなく体育座りをしたまま壁を見つめていた。

「正義に会ってみたい?」

 衣鶴は唐突に愛に質問をした。

「是非お会いしたいです。何となく正義さんには惹かれる所があるんです。だから一度会ってみたいって前から思っていたんです」

「じゃあ今から会いに行ってみようか? 勿論会っても会話が出来る訳じゃないけれど、それでもいい?」

「ええ、それでもかまいません」

 衣鶴はそれを聞いて愛に簡単な身支度をさせて正義の部屋に向かう事にした。愛にとっては初めて体験する閉鎖病棟、それは愛の想像を超えたものだった。

 まず目に飛び込んでくるのは厳重にロックされた出入り口、そして病室に居る人達、殆どまともな人間はいない、雄叫びを上げる人もいれば、ヘッドギヤを付けてうろうろしている人、そしてブツブツ独り言を言っている人間もいた。愛にとってその光景はおぞましいと言うことだけは感じていた。そして愛と衣鶴はそんな部屋を幾つか越えて正義の部屋に向かった。正義の部屋は丁度一番奥に位置する部屋だった。正義の部屋に着くとそこには吉野が居た。

「吉野、愛ちゃんが正義に会いたいって言うから連れて来ちゃったんだけど、大丈夫かな?」

 吉野は仕方ないと言う表情を浮かべて愛に言った。

「愛ちゃんちょっといいかな、正義は今言葉がしゃべれないでいるんだ。だから話しかけても応えられないんだけどそれでもいい?」

「ええ、それでもかまいません。私正義さんに会えるだけで充分です」

 それを聞いて吉野も安心して正義に会わせる事が出来た。初めて正義と顔を合わせる事が出来た愛、言いたい事は山ほどあった。聞きたい事も山ほどあった。けれど愛は静かに正義に囁きかけた。

「正義さん、初めまして飯田愛です。私、私・・・」

 愛は涙でいっぱいになった。言いたい事は山ほどあったのに、何一つ上手く言えない愛がそこにはいた。

 そんな愛に正義は気にするなとでも言いたいのだろうか、優しく愛の髪の毛を撫でた。そんな正義の姿を見て吉野も衣鶴も驚いた。それは誰もが想像出来ない光景だった。吉野は正義に問いかけた。

「正義! まさか治ったんじゃないか? なあ正義、どうなんだ!」

 けれど正義はそんな吉野の問いかけには答えてくれない。正義は静かに愛の髪を撫でながら涙を流していた。

「吉野! どう言う事なの? 正義は一体どうしたって言うの?」

 衣鶴は慌てて吉野に問いただしてみた。けれど吉野には的確な答えは見つからなかった。「分からない、一体何がどうなったのか分からない。けれど愛に正義が反応していることだけは事実だろう」

「それってどう言う事なの?」

「相乗効果とでも言うのだろうか? きっと心の傷を持った者同士何かで反応しあっているんじゃないだろうか?」

 正義の前で涙を流している愛、そしてそんな愛に優しく接している正義、そこには精神分裂病と判断されていた正義の姿は無かった。そこにあるのは傷を慰め合う男と女だけだった。衣鶴はそんな光景を見てほんの少し妬けた。自分にはそこに入る勇気が無い事にたいしてだろか? 少なくとも愛と正義の間には目に見えない境があることだけは事実だった。愛が正義の元を離れたのはそれから一時間位した後だった。

「愛ちゃんどうだった? 正義は」

「ええ、想像していた通りの人でした」

「そうそれは良かった。会わせた甲斐があったわ。でも正義があんなにも悲しそうに涙を流している所なんてしばらくぶりだったわ。思わず妬けちゃった。愛ちゃんに」

「いえ、私は別に・・・」

 愛は思わず口ごもってしまった。そんな愛に衣鶴は慌てて言った。

「そんなんじゃ無いのよ。そんな落ち込まなくていいのよ。正義にとっても今日の出会いは良かった事だと思うし、それに愛ちゃんにとっても良かった事だと思うしね」

「ええ、今日はとってもいい日でした。また会いたいです」

「ええ、また会わせてあげる。約束するわ」

 衣鶴は愛と約束すると愛の部屋を後にした。衣鶴は愛の部屋を出ると吉野の元に向かった。きっと今日の出来事を医者の目で見ていた吉野にはこの奇跡とでも言うような出来事の説明が出来るはずだと信じて。

 衣鶴が吉野の元に着くと吉野は机に向かって必死に資料を見ている所だった。

「お疲れさん。ねえ吉野、今日の出来事どう思う?」

 吉野は資料から目を離して衣鶴の顔を見ながら言った。

「奇跡的な事だよ。これは奇跡としか言いようがない。夕べ正義がほんの少しだけど過去の事を話したって言ったよね。それに今日の出来事、まるで狐に摘まれたみたいだ。正義はここ何日間で奇跡的な回復を見せている。このまま行けば正義が良くなるのももうじきだ」

「本当なの? 本当に正義が回復するのはあとちょっとなの?」

 吉野がそうであるように衣鶴にとっても正義の回復は念願の夢だった。今思えば長かった十五年間だったと衣鶴は思った。正義が精神分裂病と判断され、入院してからかれこれ十五年が過ぎた。殆ど毎日と言っていい位看病に力を入れていた衣鶴にとってはこれほど嬉しいことは他に無かった。

「正義の事は俺に任せてくれないか、きっと良い方向にもって行くよ」

 吉野は衣鶴にそう言った。

「そうだね、吉野に任せてみるよ。ただまた奇跡が起きたときには直ぐに私の携帯電話に連絡ちょうだい。いつでも駆けつけるから」

「ああ分かったよ。だから今日はもう帰っていいよ。後のことは俺に任せてくれないか」 衣鶴は吉野のそんな言葉を信じて今日は帰宅する事に決めた。衣鶴が帰宅すると部屋には吉野が一人取り残された。吉野はあらゆる症例を調べ始めた。けれど正義の様な症例は何処を探しても無かった。精神分裂病とは一概に言っても色々な症状があった。一時的に幻覚幻聴に苦しまされる人もいれば、完全に精神荒廃に至るケースもあった。正義の場合は精神荒廃に近かったが、完全にとは言えなかった。それはこの二日間で立証出来る。正義は確実に元の姿に戻りつつある。あと何十年掛かろうと正義に治る可能性が1%でもある限り吉野は戦う決意をした。そして吉野は目を閉じてみたそこにはやはり広大な世界が広がっていた。

 衣鶴は家に帰るなり次回作の小説を書き始めた。次回作は衣鶴の待望の作品でもあった。今は人に評価される作品よりも自分が書きたい作品を書くのが衣鶴の心境だった。衣鶴が小説を書き始めて何時間が経ったのだろうか、衣鶴はふとペンを止めて一息ついた。そして今日の出来事を整理してみた。今日正義は愛と会った。愛が涙でいっぱいのところ正義は頭を撫ではじめそして正義も涙した。正義が涙する事は初めてでは無かったが、今日の正義の涙は純粋そのものだった。本当に正義は回復しているのだろうか? 疑問は走馬燈の様に過ぎていく。正義は吉野の言う通り回復に向かっているんだ。そう思えばいくらか楽になった。衣鶴はそう思う事で自分に勇気づけた。自分のしてきた事に間違いは無いんだと。衣鶴はそう思うことに決めて時計の針を見た。時間は深夜の三時を過ぎた辺りだった。今日は眠ろうまた明日やらなくてはならない事があるんだから・・・。

 次の日は朝から快晴な空が広がっていた。衣鶴の住む2LDKの部屋はマンションの六階にあった。趣味で集めたアンティークも今じゃがらくたの様に転がったままだった。衣鶴が窓を開けると少しだけ秋の風が吹いてきた。それにしても今日も暑いと衣鶴は思った。このところ残暑が厳しいとは聞いていたが、こんなにも厳しいとは誰も思いはしなかっただろう。衣鶴は汗を充分吸い取ったパジャマを着替えてエアコンのスイッチをオンにした。エアコンからは少しだけ涼しい風が吹いてきた。

 衣鶴が病院に着いたのは丁度昼どきだった。衣鶴は真っ先に吉野の待つ研究室に向かった。

「おはよう。吉野夕べは正義どうだった?」

 吉野は食べかけの仕出し弁当を机に置いて答えた。

「夕べは何も起こらなかったよ。正義も昨日は疲れたのだろう夕べは熟睡していた」

「そう・・・」

「そんながっかりしない。そんなに焦っても何もいい方向に向かないって。それより愛の方が心配なんだ。最近正義の方ばかり気になってしまうが、愛の方もちゃんと見なきゃいけないって思うよ」

「愛ちゃんの方は私に任せてくれないかな。医学的に見てはどうかとは思うけれど、私の目で見ている限り愛ちゃんも順調に回復し始めている感じがするわ」

「そうか、それは良かった。心配してたけど、心配無用って事だな」

「まあ今のところはね。これからの事は一切分からないけれどね。とにかく愛ちゃんの事は任しておいて」

「分かった。それじゃ愛の事は任せたけれど、無理強いだけはするなよ。今まではそれで良かった事もこれからもそれでいいとは限らないんだからな。特に愛の場合は無理は禁物だから。あくまでも自然体に自然体にだ」

「分かってるって」

 衣鶴はそう言って少しふくれた。

「そうか。それならいいんだけど」

 吉野そう言うと残りの仕出し弁当をたいらげた。吉野と衣鶴は別れて別々の部屋に向かった。衣鶴は愛の部屋に向かい吉野は正義の部屋に向かった。衣鶴が愛の部屋に着くと愛はいつもの様に音楽をヘッドホンから聴いていた。

「おはよう。愛ちゃん今日は調子どう?」

 愛はヘッドホンを耳から外して衣鶴に応えた。

「おはようございます。今日は朝から調子いいんです。昨日正義さんに会ってから何となく心のモヤモヤが無くなって来た様な気がするんです」

「それは良かった」

 衣鶴は何気なく愛の聴いていた音楽のCDケース見た。そこには志田勇気のジャケットがあった。

「あれ、志田勇気の音楽聴いていたの?」

「ええ、そうですけど、衣鶴さんもまさか聴いているんですか?」

「ええ、私も好きよ、彼の曲。それに今書いている小説も彼の出来事を書いているの。タイトルは『時には勇気(ゆうき)の様に・・・』って言うんだけど、どうかな」

「本当ですか? すごくいいです。まさか衣鶴さんが志田勇気の小説を書いているなんて知らなかった。でも志田勇気は去年亡くなったじゃないですか」

「そうね。彼は去年突然変死したわ。でも彼の残したものは沢山あるわ。私はそれの一部分でもいいから表現したいのよ。彼がいかに偉大だったかを」

 衣鶴の言う通り志田勇気は去年二十二の若さでこの世を去った。それは週刊誌で大きな話題となった。特に大きな話題の一つとしては彼の死に方にあった。自殺と言う者もいれば、ドラッグのやり過ぎと言う者もいた。結局のところその辺の真実は分からないまま時だけが流れた。衣鶴にもその真相は分からなかったが、衣鶴は彼の小説を書くことに決めた。それは生前彼に雑誌の取材でインタビューをした時からの衣鶴の夢にもなった。衣鶴と勇気の共通点は色々あった。勇気も衣鶴の作品に感動を覚えたらしかったし、衣鶴も勇気の音楽に興味を持っていた。それに卒業した高校も一緒だった。正確に言うと勇気は中途退学をしていたので卒業はしていないが、通っていた学校は一緒だった。私立教生高校、この学校こそ衣鶴と勇気の共通点だった。今では松田と言うまともな先生が校長になって、良い学校になったらしいが、当時の学校は荒れていた。そんな共通点を持った二人がインタビューで顔を合わせた時は通じ合うモノが多かった。その日以来衣鶴にはいつの日にかそんな志田勇気を小説で書きたいと言う願いがあった。

「でも志田勇気の事知っているんですか?」

 愛のそんな素朴な質問に衣鶴は答えた。

「昔志田勇気と雑誌の取材で対談をしたことがあったの、その時に色々聞いたわ。だから半分位は分かるけれど、あとは調べたり、人に聞いたりとか色々よ。出来るだけ真実に近い作品にしたいんだけどね」

「すごいです、本当にすごいです。まさか衣鶴さんが志田勇気の小説を書くなんて。出来たら是非読ませてくださいね」

「ええいいわよ」

「わあ楽しみ。どんな作品になるんだろう」

「それは見てからのお楽しみ」

 愛と衣鶴はそんな他愛もない会話で盛り上がっていた。そんな時だった吉野が慌てて愛の部屋に飛び込んできたのは。

「衣鶴! 直ぐに来てくれ。正義に異変が起きた」

 衣鶴はその一報を聞くと慌てて愛の部屋を飛び出した。

「一体どうしたと言うの?」

「説明は後だ、とにかく正義の部屋に」

 衣鶴と吉野は正義の部屋に飛び込んだ。正義は仰向けに寝たままブツブツと独り言を呟いていた。その言葉を聞くと衣鶴の胸は締め付けられる様に痛んだ。

「さっちゃんごめん・・さっちゃんごめん・・・さっちゃんごめん・・・・」

 正義はひたすら死んだ幸子に謝っていた。

「これってどう言う事?」

「俺にも分からない。さっきからひたすらさっちゃんごめんって呟いているんだ。多分昔の記憶が戻りつつあることは確かなんだけど」

 衣鶴は正義に呼びかけた。

「正義、私だよ衣鶴だよ、分かる? ねえ正義」

 しかし衣鶴の呼びかけには正義は応えなかった。正義はなおもさっちゃんごめんとだけ呟いたままだった。

「ねえ吉野、私達の事は思い出せないのかな」

「今はまだ無理だろうな。けどそのうち思い出す可能性もおおいにある。だから衣鶴もそんなに気にするな」

「分かっているけど・・・」

「まあ何はともあれ正義は回復しつつあることだけは事実だから」

 衣鶴もそれを聞いて一安心だった。きっといつの日にか正義は完治してまた昔の様になるんだ。そう思うことで衣鶴の肩の荷が少しだけ下りた。それからは正義も変わらずに一日が終わった。

 次の日は朝から雨がシトシトと降り注ぐ何気なく憂鬱さが残る一日だった。

「おはよう」

 衣鶴はそう言いながら愛の部屋のドアを開けた。

「おはようございます」

「今日はお花を買ってきたから、飾ろうよ」

 衣鶴はそう言って病院の近くで買って来た花を花瓶に移した。

「ありがとうございます」

「そんな気使わないで、たまたま近くの店に寄ったらこの花が置いてあったのよ。それで愛ちゃんにどうかなって思って買ってきただけの事なんだから」

「それでも嬉しいです」

「そう、そう言ってもらえるとかえって嬉しいわ。ところで急にぶっきらぼうな事聞くけど、ご両親は見舞いに来ないみたいだけど一体どうしたのかな」

「私の父と母は随分昔に離婚したんです。私は母型の方に親権があったので、母と一緒に暮らしていました。けれど母はデザイナーをしていてしょっちゅう海外に行っています。きっと今頃はパリかイタリア辺りにいると思いますが」

「そうなんだ、でも辛くない? 母親が見舞いに来ないなんて」

「もう慣れました」

「ああそう。でも本当は来てもらいたいんじゃないの?」

「いえ、そんな事ないですよ。母は昔から忙しい人でしたから、来ないのが当たり前の様な気がして、それに来ても話す事無いんです。だから仕送りさえしてもらえればそれだけでいいんです」

「本当にそれでいいの? ほら愛ちゃんの年頃って親の愛が必要なんじゃないかしら、私の場合愛ちゃんの年頃はグレてたから親の愛情は無かったけれど、今思えば親がいたからグレられたのかもしれないって思ったわ」

「そう言われればそんな気がしてきますけど、うちの母にそれを求めてもしょうがないんです。昔から仕事人間でしたから」

「ああそう」

「そうなんです」

 衣鶴は大きなため息を漏らした。それもそのはず、もしかすれば親の愛情で愛を救えるのかもしれないと言う希望が消えたのだから。衣鶴は少し考えてから違う質問を愛にした。「愛ちゃん、じゃあさ今一番したい事は何かな?」

「今一番したい事ですか?」

「そう今一番したい事」

 愛は少し考えてから答えた。

「そうですね、今一番したい事はこの病院から出たいです。早く退院して自由を感じたいです」

「そうね、早く退院したいよね。でもまだ完全に治ってないんだから早く治して退院しようね」

「そうですね。でも私時々思うんですが、私の病気ってもう治っているんじゃないかって思う事があるんです。衣鶴さんにも会えたし、正義さんにも会えたし、何となくこのところ調子良いんです。だから案外治ってたりして」

「そうね、このところ調子は良さそうね。でもそう簡単に治るものじゃないんだよ。心の病気って。正義なんて十五年も戦っているんだから」

「そうですね。でもそうなると本当に治るのかなって思ってしまいます」

「治るわよ、治る。でもちょっとだけ時間が掛かるのよ。吉野も言ってたよ、愛ちゃんの病気を完全に治すんだって」

「そうですね、完全に治して退院しなきゃ。もう中途半端な入退院は嫌ですから」

「そうよ、そうでなくっちゃ」

 その後衣鶴と愛は他愛もない会話をして衣鶴は席を外した。それから衣鶴は正義の元に向かった。

 正義の病室に来ると、そこには吉野の姿があった。

「ねえ吉野、今日は正義の様子どうだった。また進展あった?」

「今日は特に変わった様子はなかったよ。それより愛の方はどうだった」

 衣鶴は簡単に今日の出来事を吉野に説明した。

「そうか、病気が治ったかもしれないって言っていたのか。でもそう簡単に治る訳がないよな。根本的な事が解明されていない限り完治したとは言えないもんな」

「そうね、根本的な事が解明しない限り完治したとは言えないわね。でも本当に愛ちゃんは強姦されたのかしら。今までの愛ちゃんの様子を見ている限りそうは見えないのよ」

「今までのケースで言えば強姦されたのは間違いないと思うけれど、出来ればそうじゃないことを祈るよ。でも最悪のケースを考えておかないといけないからな」

「そうね、最悪のケースを考えておかないといけないわね。でもその事をどう切り出せば良いか分からないわ」

「その役目はやっぱり俺がしないといけないだろうな。衣鶴にはちょっと荷が重すぎるだろうから」

「そうね、お願いするわ。でも切り出すには今が良いかもしれないわ。だって最近愛ちゃん調子良さそうだもの。今ならその原因に対処出来る気がするの」

「そうか、じゃあ考えておくよ。とにかく焦りは禁物だからな」

 衣鶴と吉野は明日愛のところに一緒に行く約束をして別れた。その後衣鶴は正義と顔を合わせて帰路に就いた。翌日は昨日の雨が嘘の様に晴れた一日だった。

 衣鶴は病院に着くなり正義の元に向かった。正義の部屋には案の定吉野が居た。

「おはよう吉野。正義の調子はどう?」

「おお衣鶴か、丁度良いところに来た。見てくれ正義がお前の名前言っているぞ」

 衣鶴はそう言われて正義の方を見た。確かに正義は衣鶴の名前を言っていた。

「衣鶴ありがとうな、衣鶴ありがとうな・・・」

「ねえ、吉野。正義は今の私に言っているのかな? それとも十五年前の私に言っているかな?」

 吉野は衣鶴のその問い掛けに小さく首を振って答えた。

「分からない。今の衣鶴に言っているのか、それとも十五年前の衣鶴に言っているのか分からない。ただ衣鶴に感謝している事だけは事実だ」

「そうね、でもちょっと嬉しい。私のこと思い出してくれたこと」

「そうだね、でも衣鶴にはその権利があると思うよ。だって十五年間ずっと正義の事見守っていたのだから」

「そうね、十五年間だもの。今思えば長かったのか短かったのか分からないけど。とにかく十五年だものね」

「そうだね、十五年だものな」

 衣鶴と吉野は十五年を振り返って見た。そこには様々な出来事があり、一言では語り尽くせない程の思い出があった。

 衣鶴と吉野は昨日の約束通り愛の部屋に二人で向かった。

第四章・・・希望・・・

 衣鶴と吉野が愛の部屋に入ると愛はいつもの様にヘッドホンで音楽を聴いていた。

「おはよう、愛ちゃん」

「おはようございます。今日は一体どうしたんですか? 二人そろってみえるなんて」

「うんん、特に意味はないのよ。ただたまたまそこで会ったから一緒に来ただけの事よ」「そうなんですか」

 愛はそう言いながら二人を見つめた。

「それより今日の調子はどうだい? 最近僕は君の所に来る事がなかったから、ちょっと心配で」

 吉野は愛の表情を見ながら言った。

「ええ、特に調子は悪くないです。むしろ調子は良い方ですよ」

「そうか、それは良かった。久しぶりに会って調子が悪いって言われたらどうしようかって思っていたんだ。でもそんな心配無用だって事だね」

「そうですね」

「ねえ愛ちゃん、今日は愛ちゃんの病気の原因について話しがしたいんだけど、いいかな」

 衣鶴は唐突に質問した。

「病気の原因ですか・・・」

「そう愛ちゃんの病気の原因について」

「病気の原因は正直言って私にも分からないんです。一体どうしてこうなったのかも」

「そうね、それは無理もないよね。ただ幾つかの仮説はあるのよ。それが正しいかどうかは分からないけれどね」

「仮説って一体何なんですか?」

「それを今から吉野が説明するから真剣に聞いて欲しいの」

 衣鶴はそう言ってから吉野にバトンタッチした。

「なあ、愛ちゃん。君は過去に強姦された事はあるのかな」

 吉野は一瞬ためらったが素直に告白をした。

「いや、いや、いやああああああ」

 愛はその事実を受け止める事が出来なかったのだろう、ただ拒絶反応をする愛がそこには居た。

「愛ちゃん目をそらさないで聞いて、これは重大な事なのよ」

 けれど愛は拒絶反応したまま何も答える事は出来なかった。衣鶴と吉野は今日は諦めて愛の部屋を後にした。

「本当にこれで良かったのかしら」

 衣鶴は吉野に問いただしてみた。けれど吉野には確定的な言葉は見つからなかった。

「でもとにかくはじめの一歩は踏み出せたんじゃないかな。勿論これからが本番だけどね」

「そうね、吉野の言う通りだね。これからが本番だね」

「愛の場合遅かれ早かれこうなる運命なんだ。だからこの現状は致し方ない事なんだろう」

「そうね、致し方ないよね。でも愛ちゃん大丈夫かな。結構拒絶反応起こしていたから、ちょっと不安ね」

「まあ本番はこれからだよ。愛が自分自身で乗り越えなければならない問題だからね」

 吉野と衣鶴はそう言って自分たちと照らし合わせて見た。けれどそこには自分たちじゃ想像もつかない世界が広がっていた。

 次の日は朝から清々しい天気だった。吉野は愛の部屋が気にはなったが、午前中の診療を先に済ませる事にした。吉野が午前中の診療を済ませた時には時計の針はもう二時を回っていた。吉野は昼食を軽く済ませて愛の部屋に向かう予定にしていた。丁度その時、愛の専任の看護婦がナースセンターに居たので、吉野は愛の病状を確認した。

「なあ岸さん、愛の今日の様子はどうだった?」

 岸看護婦は吉野にそう言われて逆に聞き返してきた。

「飯田さん昨日何かあったんですか? 今日は一言もしゃべらず天井を見上げたままなんです」

「そうか、何もしゃべらないのか」

「ええそうなんです。でも時々は何か囁く様に言うんですけど、何を話しているか聞き取れないんです」

「大体の事は分かった。後は私がなんとかしよう」

 吉野はそうは言ったもののどうしていいのか分からなかった。一体愛をどうやれば救えると言うのだろうか? 吉野の今までの経験の未熟さに嫌気がさした。こんな時他の人ならどうするのだろうか? 吉野は文献を洗いざらい探して見たけれど、適切な処置は見つからないまま時間だけが過ぎていった。そんな吉野の所に衣鶴が現れた。

「吉野、今日愛ちゃんの所に行くべきかな? それとも行かない方がいいのかな?」

「分からない。行くべきか行かないべきか分からない。でもこのままほうっておきっぱなしって訳にもいかないしな。やっぱり行くべきなんだろうな」

「そうね、やっぱりこのままじゃ良くないよね。分かったじゃあ私先に愛ちゃんの所に行っているね」

「そうだな、そうしてもらえると助かるよ」

「・・・・・・・」

 愛は衣鶴が部屋の中に入って来ても気付かない様子だった。そして沈黙だけが二人を包み込む。愛は時々何かを呟く様に囁いていたが、衣鶴にはその言葉が聞き取れなかった。そして二人の沈黙がどれくらい続いたのだろうか、その沈黙を破る様に吉野が部屋に入って来た。

「おはよう。愛ちゃん」

 しかし愛はやはり気が付かない様子だった。そして吉野が愛の視界に入ったその時だった。愛は急に叫びだした。

「来ないで! こっちに来ないで!!」

「どうしたんだ愛ちゃん?」

 けれど愛は吉野の問いかけには答えずにずっと「来ないで」を叫んだままだった。そんな愛の姿を見て吉野は部屋を出ない訳にはいかなくなった。吉野はこの場は仕方なくといった表情を見せて、その場を衣鶴に任せて部屋を後にした。愛の部屋を後にした吉野は大きく溜め息を一つ付いた。やはり自分のしてきた事は間違いだったのだろうか? そんな自答自問をしてみても答えは見つからなかった。

 しばらくして衣鶴が吉野の元に現れた。

「さっきは大変だったね」

「そうだな。まさかあそこまで拒絶されるとは思わなかったよ。であれからどうなった?」

「あれからは何も起きなかった。吉野が部屋を出てしばらくはあの状態だったけれど、そのうち何事も無かった様にまた天井を見上げたまま何かを呟いていたわ」

「何かってなんだろう」

「それは分からない。よく聞き取れないのよ。何か呟いていることだけは事実なんだけど」「そうか、それじゃ仕方ないな。でもこれからどうしよう、こんな状態じゃ治療もあったもんじゃない」

「そうね。こんな状態じゃ治療どころじゃないね。でも吉野は医者だよ、このままほうっておく訳じゃないよね」

「当たり前だ。このまま手放しでほうっておく程馬鹿じゃない。けれどいい方法が見つからないんだ。一体どうしたらいいのか」

「ねえ、正義は? 正義に会わせるの、またこの前みたいに相乗効果ってやつが起こって愛ちゃんの治療にいいんじゃないかな」

「正義か・・・。試してみる価値はあるかもな」

「じゃあ早速明日にでも試してみようよ」

「そうだな。正義もここのところ落ち着いていることだし、早速試してみよう」

 衣鶴と吉野は明日への約束を交わして別れた。そして次の日は訪れた。

「じゃあ早速愛ちゃんの所に行ってくるね」

 衣鶴はそう言って愛の部屋に向かった。衣鶴が愛の部屋に着くと愛は相変わらず天井を眺めていた。

「愛ちゃん、今日正義の所に行ってみない」

 愛はそれに関して無表情だったが、強引に衣鶴は愛を部屋から連れ出した。

 衣鶴と愛が正義の部屋に着く頃、吉野は正義の部屋で先にスタンバっていた。衣鶴は愛を正義の部屋に導いた。正義は相変わらず。無口だったが、愛が入って来るとそれに反応する様に愛の顔を眺めだした。

「ねえ正義、今日は愛ちゃんを連れて来たよ。今愛ちゃんは病と闘っているんだ。だから正義が力になってあげてね」

 正義はそれを聞いて分かったとでも言いたそうに愛を抱きしめた。愛はただ抱きしめられるだけと言う感じに正義の胸に顔を埋めた。そしてどれくらい時間が過ぎたのだろうか? 愛は気が付くと涙を流していた。正義はそんな愛に呟く様に言った。

「ごめんね。君をこんなにしてごめんね」

 それを聞いた衣鶴と吉野は唖然とした。

「ねえ吉野、一体どう言う事なの?」

「分からない。一体どうなっているのか。多分正義が口に出している事は今は亡き幸子に対して言っているんだと思うけれど」

「じゃあ正義は愛ちゃんを幸子と思いこんで言っていると言う事なの?」

「ああ、多分そう言う事になるだろう」

「そうなんだ。」

 衣鶴納得した様なしない様な曖昧な返事をした。そして吉野は、前々から考えて事を少し間を置いて真剣な眼差しで話始めた。

「なあ衣鶴、正義のこの先の行方は正直言ってわからない。けれどもしもの話だけど、俺の推測が正しければ正義は破滅に向かっている様な気がするんだ」

「破滅? 破滅ってどう言う事? まさか正義も死んじゃうって事なの?」

 衣鶴は初めての吉野から聞いた破滅と言う言葉に驚きを隠せなかった。

「まあこれは本当に仮説に過ぎないけれど正義はこの時代を破滅させようとしているような気がするんだ。その時代と言うのは15年前の時代か今現在の時代かは分からない。けれど正義の精神は時代をも超えて存在している。そして正義は新しい時代への第一歩の為に今の時代を自分の体一つで破滅させようとしている様な気がしているんだ」

「でも一体どうやって時代を破滅させよとしているの?」

 衣鶴は当然その事を聞きたかった。それはそうだろう急に破滅なんて聞けば頭が混乱するのは当然の事だった。

 そして吉野は自分で今まで15年間正義や色々な患者を見続けて来た経験から成り立った推測を話した。

「具体的にどうやって破滅するのかは分からないけれど、ただ正義の場合は破滅に向かって全速力で破滅に向かっている様な気がする。ただの死と言うモノだけじゃなくて、次世代への新しい第一歩を踏み出させる様な気がする。もうちょっと具体的に言うとこれからの人間の心に何かを残して行くだろうのだろう。ずいぶん前に志田勇気と正義が顔合わせした時の事覚えているか?」

 衣鶴は過去の記憶の中から志田勇気と正義の面会をセッティングした事を思い出した。あれは志田勇気と会談の最終日での事だった。

「飯田さん、時には正義の様に・・・って実話なんですよね? その正義と言う男に一度合わせてくれませんか?」

 勇気は衣鶴に突然聞いて来た。

「勿論面会は自由だから構わないけれど会話は出来ないよ。錯乱状態で日常会話すら出来ないんだから。それでも良い?」

勇気はその言葉に迷わず良いですと答えた

そして数日後勇気と衣鶴は正義の居る病室に向かった。その日の正義は安定剤を飲んだ後のなのか、それとも勇気の面会を初めから知っていたとでも言えば辻褄が合うかの様に落ち着いていた。勇気はそんな正義をただ眺めているだけだった。そして正義もそんな勇気を受け止める様に黙ったまま見詰め合っていた。その間衣鶴や吉野にはその行動の意味がその時には分かる術も無かった。正確な時間は分からない多分10分程度の面会だったと思う、けれど衣鶴や吉野にとってそれは1時間にも2時間にも感じられる時間だった。その二人の沈黙が終わった後勇気は呟いた

「やっぱり俺と同じなんだね」と。一体二人の沈黙の間に何が起こっていたのだろうか?

後で衣鶴は志田勇気に尋ねてみた。

「ねえ志田君、正義との面会どうだった?」

「充実しました。やっぱり俺と同じ気持ちで居る事が分かっただけで十分です」

 その時の勇気の顔は満足そうだった。

当時の衣鶴にはその時のその意味が理解出来なかったけれど勇気が死んだ後の事を考えるとその意味がほんの少し分かった気がした。勇気はその3日後に死んだ。自殺説が大きく報道されていたが、真意の程は誰にも分からなかった。とにかく志田勇気が死んで時代は終わった。志田勇気が最後のパンクロッカーであった事に間違えは無い。今じゃパンクロックなんてのは誰も聞いて居ないし、誰も真似などしていなかった。時代はパンクロックからニューミュージックに変り、アップテンポの明るい曲に変っていった。何かを主張する若者は消え、学校側も束縛する事を止めて自由に成った。その代わりに志田勇気という若い青年がこの世から消えて居なくなった。

 衣鶴はそんな事を吉野に言われて気が付いた。

「破滅とはこの世の中がまた変るって言う事なの?」

「もしも俺の見解が正しければ正義は破滅するだろう。でもこれはあまり考えたく無い事だし出来る事なら正義の笑顔がまた見てみたいなあ」

 衣鶴は暫く黙って正義と愛の姿を見つめていた。悔しいけれど愛と正義とはお似合いのカップルの様に衣鶴には感じられてしまう。抱きしめている正義も抱きしめられた愛も涙を流していた。その涙の意味は心の傷を持った人同士しか感じられない悲しい涙だった。

〜最終章・・・新しい第一歩・・・〜

 愛にとって正義との触れ合いは大切なモノの一部に感じられる様に成っていた。愛は辛くなると直ぐに正義の下に行き正義の触れ合いで勇気付けられた。正確に言うと心のトラウマから逃れられた訳では無い。やはりその時の情景を思い出すと心が苦しみ出す。でも今は去年まで自分とは違う。それは正義との出会いが改善しているのだろうかは分からない。けれど心の支えは少しずつ少しずつ出来始めて居る事は心と体で感じる事が出来た。正義はと言うと精神分裂病の患者に最適な薬(hリスパーダール)が新薬として開発された事もあり、普通の状態までもは回復はしていないが簡単な質問程度なら応えられる様にまで回復していた。でも幸子の死までは理解する事が出来ず相変わらず愛の事を幸子と呼んでいた。

愛も名前や人を間違えられていたがそんな事は気にならなかった。とにかく正義に会いたいし正義と話がしたいと言うのが先にあってその対象物が今は亡き幸子のモノだとしても満足していた。とにかく二人はお互い心の傷を持ちそれを癒しあえる仲であることには違いは無かった。でもそこには確かな愛なんて存在していなかったが支えあう信頼関係だけは成り立っていた。その頃衣鶴は(時には勇気の様に・・・)の脚本を書くので手一杯だった。吉野も患者が増え続けて行き愛だけを診ている訳には行かなくなった。愛は正義とよく30分のお散歩タイムを利用してデート気分を味わっていた。正義の方も醜い幻覚、幻聴から解き放たれていたらしく、ブツブツ言う独り言はあまり言わず愛の質問だけに反応していた。でもひとつだけ違うのは愛自身では無くて幸子の面影を正義は求めている事だけだった。それでも愛は正義の下にほぼ毎日通った。最近衣鶴が原稿の締め切りに追われていてなかなかお見舞いに来られなかったが、その代わりに愛が正義の世話を焼くように成っていた。年の差はあったが正義の精神年齢は15歳の時に止まってしまっているので愛にとっては話し易かった。勿論だからといって今流行のモノを言っても正義には理解出来なかったし、愛自身もあまり流行りモノには興味が無かったからそれはそれで良かった。そんな中愛は前々からどうしても聞いてみたかった質問があった。それは正義は一体何を背負って(守って)生きているのかと言う事だった。

でもそれは正義にとって聞かれたくない質問だったらどうしようと言う不安があった。もしも自分の言葉がきっかけでまた病気の再発でも起こしてしまったらどうしようと言う思いから、中々切り出せずに居た。自分の病気は克服している自身があった。自分の場合は正義の人間性に惚れた事で克服出来た気がした。だから尚更正義の背負っているモノの真実を聞きたかった。そんな時身近に相談できるのはやはり吉野不二男だった。愛は正義との散歩の後吉野の居る宿直室に向かった。ドアを3回叩くか叩かないかのうちに宿直室のドアが開かれた。そして吉野が現れた。

「あれ愛ちゃん? 何か用事?」

 吉野は今まで仮眠でも取って居たのだろうか? 大きなあくびを一つして眠そうな目を擦りながら愛に尋ねた。

「先生に相談があるんです。正義さんの事なんですけど・・・」

 愛が正義の名前を口に出した瞬間から吉野の目付きが変ったのは愛にも直ぐに分かった。

「正義がどうかしたのか!!」

「いえ、どうもしてないんですけれど、ただ一つだけ知りたい事があるんですが」

 吉野の顔が穏やかに戻って行くのも愛には直ぐに分かった。

「知りたい事? 一体正義の何が知りたいんだい?」

 愛はその吉野の問い掛けに素直な気持ちで答えた。

「吉野先生ズバリ聞きますけれど正義さんは一体何を背負って生きているんですか?」

 吉野は愛のその意味を少しだけ考えてからゆっくりと答えた

「そうだ何かに例えるならば十字架だよ。そのあのイエス・キリストが背負っていた十字架だよ」

「十字架?」

「そうだよ十字架だよ。もうちょっと言い方を変えれば全ての罪を被ってそれを自分一人だけで背負おうとしているんだ。正義はまさに現代のイエス・キリストとでも言えば良いのかもしれないね。そしてまさしく俺は現代のユダだろうね」

「正義さんがキリストで、吉野先生がユダって言うことですか? じゃあユダである吉野先生はキリストである正義さんを裏切るって事になるんですか?」

吉野は愛のそんな気持ちにすっぱりと答えた。

「ああいつかはね。こんな言い方すれば誤解を招くおそれがあるけれど、正義の時代はもう終わったんだよ。正義が何処に向かおうとしているのかが最近やっと分かったんだよ」

 愛は何となく死を連想した。でもその答えは愛にはまだ理解できなかった。

「正義さんはじゃあ一体何処に目指して居るんですか?」

 そんな愛の質問に吉野はゆっくりと説明し始めた。

「正義は破滅を目指している、いわゆるそれはこの世の果てなんだ。それだけは今まで色々な患者を診て来たから何となく分かる。ただ未だに良く分からないのは正義はたった一人でこの世の果てに向かおうとしているのか、それとも仲間全員連れて行こうとしているのか、そうじゃ無ければ幸子と思い込んでいる君を連れて行くのかもしれないね」

「この世の果て・・・・って死ぬって言う事なんでしょうか?」

 愛は正義となら死んでも悔いは無い覚悟は出来ているけれどこの世の果てイコール死なのかが分からなかった。そんな愛の疑問に吉野は頭を傾げながら答えた。

「この世の果てが死なのかは分からない。もしかしたらこの現代社会の手の届かない砂漠やジャングルや北極の氷の上かも知れない。そもそも現実の場所なのかそれとも精神世界の果てなのかすら分からない。ただ正義は全ての罪を背負って破滅の道を選ぶんだろう。そしてそれが新しい第一歩の始まりだって事だけは分かる。だから俺は正義を裏切らなくてはならない。このまま行けば正義は純粋な心が壊れて死を選ぶか人格荒廃の道を選ぶのか、それとも自分自身を傷付けたりしながらしか生きて行くしかない。それにこのままの正義の生き方には世間の風は冷た過ぎるよ。高校中退それも教師に暴力を振るっての強制退学だ。それ以外にも中学生の頃には少年刑務所に1年入っていたし、何と言っても15年間も精神分裂病で精神病院に入院していたんだ。そして今の所、完治は出来ない、他の先輩医師に聞いてもこれだけ回復するのもやっとの事であり奇跡に近いって事なんだ。だからこれからは正義を病院の中だけじゃなくて外に出そうかと思っている。勿論それはとても危険な賭けかもしれない、けれどこれはあくまでも正義の為んだ。もしもさっきのキリストとユダの話で言えばユダがキリストを裏切った事になっているがあれは僕から見たら誤解なんだと思う。もしも僕の説が正しければユダはキリスト自身の為にキリストを裏切った。そしてキリストはあえてその道を望んだのだよ。世界平和の為にね。そしてここには現代のキリスト(正義)が居る。だから俺は正義の為に裏切り者のユダになって正義をこの病院から追い出すよ。それも近いううに」

 愛はただただ吉野の話を聞いているだけだった。でも愛にも愛なりの決心があった。それは最後まで渡辺正義と言う男を見続ける事だ。愛はこの世の果ての事をちょっとだけ想像して見た。草木は無く生き物は何居ない。空はどんよりと曇っていて太陽の光を完全に断ち切っている。そしてただ足元が崖に成っていて見渡す限りの景色は何も無い。一歩でも前に進もうとすれば底の見えない崖から転落してしまう。渡辺正義は本当にそんな場所を目指しているのだろうか? 愛には正直って吉野の言っている事が本当か嘘かは分からない。けれど正義が何処かに向かおうとしている事は感じていた。そして愛自身もそんな正義の向かう場所に歩き出す準備は出来ていた。

「吉野先生、私は正義さんに着いて行って良いですか?」

 吉野は愛のそんな言葉に悩みこんでしまう。確かにそれ自体は本人の意志だし愛がそれを望んでいるのならばそれはそれで止めようが無いけれど、正義が向かう場所が破滅だけあってまだ若い愛をそんな場所に行かせたく無いのが本音だった。

「愛ちゃん君は死をも覚悟しているのかな? 確かに正義は現代のキリストとして十字架を背負うかもしれない。けれど愛ちゃん、君はキリストには成れないし、むしろキリストよりも聖母マリヤになる方が僕は良いと思うんだけどな。勿論神話では聖母マリヤの子がイエス・キリストだから、実際の聖母マリヤには成れないけれど、例えば正義の子を産むとか、とにかく正義の次世代に愛ちゃん君は必要なんだよ。だから君は今は破滅に向かうんじゃなくて新しい第一歩を踏み出す人間になって欲しいと僕は思っている。そんな考えどうかな? きっと正義もそんな生き方を望んでいると思うんだ

「でも正義さんには衣鶴さんと言う恋人が居るじゃないですか? 私が正義さんの子供を生むって事は私が正義さんの奥さんになるって事ですよね。衣鶴さんはどうなっちゃうんですか?」

 吉野はそんな愛の質問に笑いながら答えた

「衣鶴は確かに正義の事が好きだよ。でもそれは恋愛の対象としてでは無くて異性を超えた好きと言う事なんだ。衣鶴は正義の人間性に惚れているだけに異性としての対象では無いんだ。僕らは仲間なんだよ。ここの病院に見舞いに来るのはみんな仲間で、ただの友情だけで結ばれて居るだけの事なんだ。だから仮に正義と愛ちゃんが結婚しても誰も文句は言わないしかえって祝福してくれるんだよ

 愛は正直言って迷っていた。結婚の事もそうだけれども、正義と一種にこの世の果てに行くと言う考え(選択肢)もある。でもたしかに死ぬ事はいつでも簡単に出来るけれど正義の意志を継いで生きる事の方が何十倍も辛い事だった。けれどそれがもしも正義の望んでいる事ならばその道を選ぶ方が正しい気がした。

「でも私にそんな事出来るんですか? 正義さんの様に時代を変える位の人間に成れるのでしょうか?」

 吉野は愛に向かってハッキリと言った。

「君なら成れる。君は強姦と言うトラウマを克服したし、君の目を見れば君がどれ位純粋かは分かる。君や正義や、あと志田勇気は三人とも同じ目をしていた。何か特別な事をしろなんて事は言わないし、言えない。けれど例え這い蹲ってでも真実に向かって歩いて行けばやがて時代は変る。僕だって衣鶴だって時代を変えて来た仲間なんだ。だから愛ちゃんにこそ新しい時代への第一歩を踏み出して欲しいんだ。自分なりのやり方で」

 正直言って吉野の言っている事は愛には衝撃的に感じられた。自分が時代を変える事が出来る人間だなんて生まれてから一度も思った事なんて無かったし、なろうとも思った事すら無かった。けれど吉野に言われてから何となく自分が求めている時代(パーフェクトワールド)が無かった訳では無い。このゾンビの様に大した意志も持たない若者達や政治家達に不満が無かった訳じゃない。だから愛は決心した。この世界を変える一人になろう。そして正義の子供を生んで育てよう。例え正義がこの世の中から居なくなったとしても、正義はいつまでもみんなの心の中に居る。だから今度は自分がこの世の中を変える人間の一人になろう。仲間もいっぱい作って自分が正しいと思う道を行こう。例えそれが無様な格好でも良い、とにかく今から自分はこの何もかもが曖昧な世の中を素敵な夢や愛や希望を持てる時代に変える開拓者になる事を決意した。そしていつの日か渡辺正義や志田勇気の様に人の心に残る人間に成ろう。愛は確かに初めの一歩を踏み出した。そしてそれは永遠に終わることの無い初めの一歩だった・・・。

〜格好悪くても良いね 無様でも良いね 惨めでも良いね

本物の真実の正義や勇気や愛なんてきっともっともっと自由で孤独で夢がいっぱいあるモノなのかもしれないね そしてどんな人の心の中にもいつでも存在しているモノなんだよね だから時には誰かの様に生きて行けたらきっと幸せなんだろうね

自分が描く誰かの様に・・・〜