波の音の中で見つけたモノ・・・

 
-- ガラスの破片はただのガラスの破片、壊れたおもちゃはただの壊れたおもちゃ、
  けれど僕は信じたい
           いつの日かそんなモノ全てが大切なモノに変わることを・・・ --


 その年の夏僕は27になる、今はまだ26だけれどもそれは後二ヶ月という期間を経れば、
確実に変わるモノだった。けれどそんな中、永遠と変わらないモノがあった。
その年、僕は304号室と書かれたホテルの一室の中で白い壁に映し出された思い出と言う世界を眺めていた。
投影機は機械が奏でるガシャガシャと言う機械的な音意外は無音のまま動き続けている。
そして長く切ない一本のフィルムが終わると、その白い壁には白と黒の世界と、窓の外から微かに聞こえるザーザーと言う波の音だけが交互に僕を包み込んでいた。

 -- 今思うと僕はあの日あの時、本当に大切なものの意味を知り、
                       そして本当に大切なモノを失った気がした --
 
 その日僕は残った仕事を家に持って帰ってまで仕事をしていた。
都内の僕の住んでるマンションではゴールデンウィークと言う事もあり、僕だけを一人残してみんな何処かに出かけて行ってしまったらしく、まるで孤独な東京を感じさせる様にシーンと静まり返っていた。 まあ夜中の一時を過ぎればゴールデンウィークじゃなくても静まりかえっているのは当然の事なのかもしれない。とにかくさっきから聞こえて来るものは、僕が仕事で使っているコンピューターのキーボードを打つカチカチと言う単調な音と、時折聞こえるエレベーターのウィーンと言うまるで小さい時に見た宇宙船のワープする時に似た音だけだった。僕はそのコンピューターのキーボードを叩く指を止めて溜息をついて、恋人の幸子の事を考えてみた。

 一体今頃何をしているのだろう? 

 幸子は今、友達の絵里と沖縄に行っていた。本当ならば僕と一緒に行くはずだったのだが、いつもの僕の方の「仕事が忙しいからまた行けそうもない」と言う僕だけの勝手な理由で、急遽幸子の昔からの友達絵里と行く事に成った。
今考えると、とても可哀想な事をしてしまったと僕は思った。
幸子が旅立つ日に僕は羽田空港まで見送りに行ったが、僕の「気を付けて行って来いよな」と言う言葉に振り向きもしないですたすたと搭乗口に向かう幸子の怒った後ろ姿を見れば、彼女がどれほど今回のこの沖縄旅行を楽しみにしていたかは良く分かった。

 そもそも看護婦をしていた幸子と外資系の医薬品会社に勤めていた僕とでは、予定が合わないなんて事は日常茶飯事だった。けれど今回のこの旅行は半年前から僕と幸子とで企画していて、幸子は勿論、僕もそれなりに楽しみにしていた。それに僕にとってある事を実行する為の特別な旅行でもあった。
でも何故、そんな予定も合わない僕らが恋人で居られたのかは、僕らがまだこの規律社会が生み出した責任という鎖を背負わされなかった未成年だった18、そう大学一年の時に出会えたからだった。
元々僕らは学部こそ違ったものの、同じ自主映画サークルに所属していて、まだ一年生だった僕らは同じ映像補佐係をしていた。映像補佐と言えば聞こえはいいが、要するに雑用係だった。だから監督が何々が欲しいと言えば、例え遠くの町だろうが買い出しに行かされたし、今日何処どこで撮影があると言われれば、朝早くからその場所に行って場所取りをやらされていた。そんな腑に落ちない仕事を通して僕は幸子と知り合った。

 元々その雑用係としか言いようの無い映像補佐係には僕と幸子をあわせて8人の仲間がいたが、割に合わないと思ったのだろうか、その数は一作品を終える毎に減っていき、結局寒い冬を迎える頃まで残ったのは僕と幸子の二人っきりだった。けれどそれは当然の事だろう。このサークルに入る前はきっとみんなそれなりに夢を持って入ってきたはずなのに、実際入ってみればそれは余りにも夢とは程遠いいものだった。作っている作品はそれなりにいいものだったのかもしれない。けれど僕ら一年生は殆どと言ってその作品にたずさわってはいなかった。それどころか、撮影している所すらまともに見ることも許されてはいない。なんせ次から次へとあれやれこれやれ、あれ持ってこい、次の場所確保しとけと命令が飛び交い、しまいには少しでも休んでいると、なにぼーっとしてんだ! たるんでるんじゃねえよ馬鹿たれと怒鳴られる始末。これじゃ人がいなくなるのは当たり前の事だった。

 正直言ってこの僕も実は辞めようと思っていたぐらいだったのだから。けれどそんな中それでも一生懸命頑張っていた人が一人だけ居た。それが幸子だった。
幸子は他のみんなが嫌がる様な仕事も楽しそうにこなしていた。みんなが今日は本当に疲れたと愚痴を言う中、本当に今日は楽しかったねと嬉しそうに言う。他のみんなも始めはそんな幸子の言葉に微笑んではいたが、それは一人減り二人減り、やがて僕一人だけが幸子のそんな言葉に応えていた。
実際の所僕だってそんな幸子を残して友達と一緒に辞めるつもりだった。けれどそれを実行する日に、幸子の一人で一生懸命頑張っている姿を見てしまうと、幸子一人残して行くわけにはいかないと思ってしまった。だからこそあの日の幸子の「もしかして岡本君も辞めちゃうの?」と言う問い掛けに、「えっそんなこと無いよ。吉田さん一人残して辞めないよ」って言えたのかもしれない。

 結局僕は一緒に辞めようぜ、と誘ってくれた友達に断って残る事に成った。それからだった僕と幸子の二人っきりで楽しく、そして辛い日々を過ごす様に成ったのは。
僕らは殆ど一緒だった。授業が終われば一緒に買い出しに行き、次の日の朝の撮影の為に、まるで花見の場所取りの様に徹夜で場所取りをした。そしてそんな中の一時(いっとき)の合間の中で僕らはお互いの趣味や夢を語り合った。
その頃の幸子の趣味は本当に驚く程豊富だった。冬はスノーボードに夏はダイビング、そして実用を兼ねての看護福祉のボランティアと言う何でも器用にこなす活発な女の子だった。それに比べて僕の趣味は貧弱と言うか質素と言うか、言える趣味は読書と映画鑑賞位の地味なものだった。けれどそんな活動的な彼女と消極的な僕には唯一共通の目的があった。それが僕が半分うんざりしながらもやっていた自主映画だった。自分たちの手で何かを作り上げたい、そして人の心に感動を与えたい、それが僕らの唯一共通と呼べる夢だった。

 僕と彼女は良く時間の合間を見つけてはそんなたわいもない話をした。そして寒い冬を越え春を迎える頃には僕らも大学二年生に成り、サークル内でも雑用係から昇格し、少し美人系の彼女は役者に抜擢され、そして内気な僕はフィルム編集と言った裏方にまわされた。そうなると同じサークルと言っても前の様に一緒に過ごす時間は殆ど無くなり、別々の場所で一本の同じ作品を作る様に成った。

 けれど彼女の中の僕はどうであれ、僕の中の彼女はそれからも一本のフィルムを通して消える事は無かった。それはただの16mm幅のフィルムだったけれど、そのフィルムの中の彼女には笑顔があり、そして涙を流すこともあり、時には優しくささやきかけてくれる事もあった。彼女は本当にいつでも生き生きとしていて、編集室の暗い部屋の中で孤独な作業をしている僕に、いつでも清々しい気持ちを与えてくれていた。その中でも僕が一番気に入っているものは、本編では使われることの無いNGだった。きっと彼女の癖なのだろう、彼女がセリフを間違えたり演技を失敗してしまった時にする、軽く片目を瞑ってちょこんと舌を出して照れ笑いをすると言うものだった。普段の一生懸命さが伝わるだけあって、その失敗した時のお茶目なギャプは僕をホッとさせてくれるモノでもあった。そしてそれは僕にとって元気の源だった。だから僕は他の人の不必要なNGはためらいも無く捨て、彼女のNG部分だけを僕だけの宝箱にしまい続け、そして暇さえあれば箱から出してそれを眺めて頑張ろうって思い続けた。そんなこんなんで僕らは大学二年間は殆どを別々の場所で過ごし、そして僕らも幾つかの思い出と幾つかの作品を作り上げて念願の大学四年生に成った。

 そうなれば自主映画サークルは我ら四年生の天下と言っても過言では無い。僕は僕の本当に撮りたい作品を作れたし、幸子は幸子で自分の本当に描きたい女優に成れた。そして僕は部長に、幸子は副部長に厳選な審査の上で選ばれた。と言っても実際の所は、四年生は僕と幸子の二人だけしか居なかったので、一応男の僕が部長で女の幸子が副部長と言う妥当な線で決まったのが本音だった。けれど理由はどうであれ僕は部長で、幸子は副部長になった。
実は僕はそれまでに本当に作りたい映画の脚本を書いて置いたのがあった。けれどその作品は何もかも自分で思い通り出来る様に成れるまで誰にも言わずにとって置いたんだ。そして部長に成った時、僕は監督としてその作品を最後の作品として撮った。
幸子は幸子として大学二年生からキャストとしてずっとやって来たので、最後ぐらい私も裏方を経験したいと言っていたが、僕はどうしても幸子をヒロイン役として起用したかったので、幸子に頼んでヒロイン役を引き受けてもらった。本当だったら僕も男役として出たかったけれど、監督兼役者と言うのはかなり無理があるという事で、仕方なく後輩にその役は譲ることにした。それだけ僕がこだわった作品というのは実はこう言う作品だった。

 それは仕事に追われる男、そして仕事に追われる女、まるで今の僕らの様な二人の恋人同士が、現実の忙しさで忘れかけていたモノを二人が付き合い初めて最初に旅行に行った場所に行き、そしてそこでその失いかけていた大切な想いを思い出し、もう一度初めの一歩から始めようと誓い合うと言う何処にでもありそうなラブストーリーだった。けれど実はそんな何処にでもありそうなラブストーリーに僕はこだわりがあった。それはラストシーンで男が女に最後に言うセリフだったんだ。 
 男は全てを捨てて女の目を見て言う。

「俺は忙しさの中でそれはずっと不確かなモノだと思っていたんだ。だって今までいつだってそれは俺にとって不確かなモノだったから。けれど今こうしてまたこの場所に立つとそれは違うと思えた。俺は君と出会って確かに確かなモノを手に入れた。なあ加奈子、俺と結婚しよう」

 そして女は涙の中で小さくうなずく。そしてそんな二人を海の優しい波音が包み込んでいくというシーンだった。勿論そこに行き着く過程にも色々な想いはあり、それなりの物語性もあった。けれど何故か僕はこの言葉を主人公の男に言わせたかったんだ。それはもしかしたら自分の気持ちを男役の主人公を通して彼女(幸子)に伝えたかったのかもしれない。結婚しようと言うのは別として僕はこの大学の四年間で幸子から教わった事が沢山あった。だからこそ加奈子と言う女役ではあったが、その加奈子という役を演じる幸子本人に、映画という世界を通して伝えたかったんだ。結果としてその作品の出来映えは自主映画評論家の中ではどうであれ、僕たちサークル内、そして僕にとっては最高の作品に成った。そしてその作品で二人の男女が初めて行った思い出の場所、そして最後のラストシーンはサークル合宿を兼ねて、今現在幸子が絵里と行っている沖縄の海で撮影したものだった。僕は今でもその沖縄での出来事は僕の心の中にしっかりと刻まれていた。

 その撮影兼サークル合宿、実際には僕と幸子にとっては卒業旅行も兼ねてはいたが、その四泊五日の旅行日程は、撮影は一日で撮り終え、二日目は撮影打ち上げを兼ねてのドンチャン騒ぎ、そして三日目は一応合宿も兼ねていたので、それなりの打ち合わせや反省会を行い、そして最後の一日は後輩達は次回作の打ち合わせしていたが、僕と幸子はもう引退をすると言う事と、卒業旅行を兼ねていたので後輩達の配慮でOFFと言う事に成った。そしてその最後の一日が僕と幸子にとって忘れることの出来ない一日となった。
その日は朝からいい天気だったので僕らは真っ赤なオープンカーを借りて島内をドライブする事にした。

 実際は東京に帰ってからの編集作業が残ってはいたものの、一応僕ら最後の作品の撮影はクランクオフしたと言う事によって、僕らは本当に久しぶりに羽根を伸ばすことが出来た。僕らは午前中は沖縄の青い海が良く見える海岸線を走り、お昼には沖縄料理の美味しい店で昼食をとり、そしてハブ園にてハブとマングースの決闘を見た。ハブとマングースの決闘と言っても実際は秒殺でマングースの勝利となった為、それ程面白いものでは無かったが、その間そんなハブとマングースの決闘よりも僕にとって興味深い出来事があった。それは本当に意外な一面だった。僕は多趣味で活発な幸子はどちらかと言うと、怖いモノ知らずの女の子だと思っていたんだ。けれどそのハブとマングースの決闘が始まる前から必死に僕の手を握り、下を向いたまま「もう終わった? もう大丈夫?」と僕に聞いて来る姿を見ると、僕の今までのイメージとは違って本当に女の子っぽい女の子と言う感じで、それが僕には幸子の意外な一面に感じられた。僕はハブとマングースの決闘が終わってその檻から二匹が連れ出されると「もう終わったから大丈夫だよ」と言って幸子の小さく震える肩に手を置いて優しく言った。
幸子はどっちが勝ったの? どっちかが死んじゃったの? と僕にひっきりなしに聞いてきたから、僕はたった一つの小さな嘘を付いた。

「ううん、どっちも死んじゃいないよ。結局二匹ともやる気が無かったから、両者引き分け。最後は握手して別れたよ」

幸子はホッとしながら言った。

「そうなんだ。それは良かったわ・・・? でもマングースならともかく蛇って手があったかしら?」

僕は仕方なく二つ目の嘘を付いた。 

「見てなかったから知らないと思うけど、蛇はしっぽで握手をするんだよ」

 今度は幸子も納得したかの様に「へえ、そうなんだ。でも本当に良かったわ。殺し合わなくて」と安心しながら言った。僕はその時そんな安心して言う幸子を初めて愛おしく思えた。
それから僕らはまた真っ赤なオープンカーで更に北に海岸線を向かった。
さすがに一月の沖縄は、沖縄と言っても東京の夏頃の風に比べて涼しくオープンカーで傾きかけた夕日の中を海岸線に沿って走るには薄手のジャンパーを羽織らなければ寒い位だった。
僕は自分のジャンパーをトランクから出して幸子の肩まで出ているピンクのワンピースの上から掛けてあげた。

「ありがとう」と幸子は言った。
「やっぱ沖縄と言っても夕方は少し寒くなって来たね」
「うん」

 僕らは海岸線沿いの水平線が良く見える駐車場に車を止めて少し休むことにした。
僕らの目の前には、車のフロントガラスからはみ出して見える水平線があり、そしてその向こうにはまるで僕が大学の四年間で幸子を通して見つけた確かなモノの様に、少しオレンジがかった太陽が完璧な丸を描いて沈もうとしていた。
僕は大きな溜め息を付いた。それは大学四年間張りつめていたものから解き放たれた一瞬でもあった。

「ねえ、これから寂しくなっちゃうね・・」
そう切り出したのは彼女の方だった。

「そうだね、色々忙しい時は忘れていたけど、これで終わってしまうのかなと思うと何だか複雑な感じだね」

それはまるで僕が描いたシナリオの一部の様な気持ちだった。そして幸子はそんな僕の気持ちを悟ったのか、突然言った。
「ねえ岡本君、今回の自主映画のシナリオの事なんだけれど、ひょっとして好きな子の事を想って書いたんじゃないかしら」 
 僕は一瞬ドキッとした。あまりにもそのセリフが僕の心と一致していたから。
「えっ、どうしてそう思うんだい?」
「女の感っていうものなのかな。私は本を読むのは好きだから良く本は読むわ、でも物語を書けって言われてもきっと書けないと思うの。けれどどうしても書かなくちゃいけないとするときっと私だったら好きな人のことを考えながら書くんじゃないかなと思って」
彼女の言った事は全て正解だった。僕だって決して物書きの才能なんて無かった。けれどどうしても描きたいものがたまたまあっただけで、そしてそれは彼女が言う通り好きな人のことを想って書いたものだった。

「君の事を想って書いたんだ」

 彼女はそれを聞いて驚いたかの様にも見えたし、その言葉を言われることを初めから知っていて納得したかの様にも見えた。けれど僕が一番不思議だったのは、彼女のそんな表情では無くて、何故僕がこんなにもためらいもなく素直にそのセリフを言えたかにあった。「私の事を想って?」

「そう君の事を想って。僕がここまでやって来れたのは君のお陰なんだ。今だから話すけれど、君に出会うまでの僕は正直言って何もかも中途半端な人間だったんだ。中学、高校と部活には入るけれど何もかも最後まで続ける事は出来ずに結局途中であきらめたり逃げてばかりいた、本当だったらこの自主映画サークルだって途中で辞めようかと思っていたくらいだった。けれど君と出会って、君の精一杯頑張っている姿やどんなに辛くても笑顔を絶やさない君の姿を見て、そんな今までの中途半端な自分じゃいけない、頑張ってみようって、だから僕がここまでやって来れたのは君のお陰なんだ」

「私のお陰?」

「そう君のお陰。僕はこの四年間で本当に大きく成れたそして確かなモノを実感した。
だから十六ミリのフィルムを通してじゃなく、カメラのレンズを通してでなく、今目の前の君に言いたい事がある。今まで僕は君に支えられて来たけれどこれからはほんの少しでもいい、君の支えになりたいんだ。どうか僕と付き合ってくれないですか?」

 自分でも驚くかの様な決まった僕の突然の告白。まるで何処かでカメラの回るシャカシャカと言う音が聞こえていて、そして「はいカット」とでも言われそうな雰囲気、けれどその数十秒の沈黙を破ったものは「はいカット」と言う聞き慣れた言葉では無くて、それは耳を澄まして聞いていなければ波の音に消されてしまうんじゃ無いかと思える程小さな声で「私のこと大切にしてくれますか?」と言う、二十歳を過ぎてはいたものの恋愛経験の少ない幸子の淡い乙女心の声だった。
僕は胸を張れたのだろうか? 本当に胸を張って言えたのだろうか? それは今になっては分からない、けれど僕はきっとその時初めて胸を大きく張って言えた気がした。
「はい! 何よりも誰よりも大切にします!!」とこの時は。

 今僕の周りには何もない空間があり、そして目の前には仕事で使っているコンピューターの17インチの大きなディスプレーがある。僕はディスプレーの中を覗き込んだ、そのディスプレーの中には海外の薬品名の表と企画提案書とが交互にあり、そしてその先にあの幸子に告白した時よりも三年も年をとった僕が写っていた。
 僕は本当に胸を張れたのだろうか? 僕は本当に嘘偽り無く幸子を大切にしたいと思っていたのだろうか? そのディスプレーに写った自分に僕は問い掛けて見た。
 答えは勿論決まっていた。僕はキーボードのYと言うキーとEと言うキーとSと言うキーをためらう事無く力強く打った。僕は今回の旅行を断ってしまって幸子に本当に可哀想なことをさせてしまったとつくづく思った。それなのに僕は本当にためらいもなくYESと言えるのだろうか? 僕は少し考えてYESの後にmaybe(たぶん)と言う言葉をつなげてみた。

 お互い付き合い初めは別として大学を卒業と共に僕らは別々の道を歩き、そして別々の責任を負わされる様になった。彼女は小さい時からの夢だった看護婦の道に進み、僕はたいして夢でも憧れでも無かったが、聞こえの良い外資系の医薬品会社に就職を決めた。そうなって来ると必然的に僕らは会える回数は減り、愛だ恋だなんて事は言える状況では無くなった。僕の誕生日は七月だったので三回のうち二回は彼女が仕事を無理して休んで祝ってくれたけれど、十二月生まれの彼女は僕の会社の決算と言うことと、彼女自身の方も忘年会シーズンだけあって急性アルコール中毒と言う急患が一番多いことで休みをとるどころではなく、一回しか会ってお祝いをしてあげられなかった。勿論クリスマスだって同様の理由で一回しか会ってお祝いは出来なかった。そんな僕が本当に何よりも誰よりも彼女を大切に想っているだなんて言えるのだろうか? 僕はディスプレーに映し出されたmaybeと言う文字を見た。
 一体何がmaybeなんだ! これじゃmaybeどころか限りなくNOじゃないか! それは確かに大切に想ってはいた、けれどそんな大切な彼女一人幸せに出来ない男がそんな事言える事が出来ると言うのだろうか? 仕事仕事っていつも彼女に悲しい想いばかりさせて来て、けれど僕だって無理をすれば仕事を休む事だって出来たはずさ。確かに会社はくだらない採用試験とやらで僕を選んだ、だけど僕だけを選んだ訳じゃ無くてそれなりの大学の薬剤学部卒業と言う肩書きを持つ何十人を選んだ中の僕は一部に過ぎない。それに比べて彼女はこの世界中のたった一人の僕だけを選んでくれたんだ、何の取り柄も無いこの僕だけを。

 僕は机の上の写真立ての彼女と二人で写っている写真を見た。それは真っ赤なオープンカーと真っ青な沖縄の海をバックに撮ったあの僕らの記念日の写真だった。そしてその中の僕らの笑顔は本当に輝いていた。
 僕は大きく溜め息を付いて目を閉じてみた。そこには何もない空間が広がっていて、僕の付いた溜め息はまるで行き場を失っているかの様にその空間を漂っているだけだった。僕は無性に彼女の声が聞きたくなった。そして彼女に全てを謝りたかった。勿論許してくれなかったら許してくれるまで謝り続けるつもりだ。そしてもし許してくれたなら今度こそ彼女と二人で二人の思い出の地沖縄に行きたかった。今度は彼女の予定に全て僕が合わせよう、もしも彼女が望むのなら一週間でも二週間でもいい、それで会社がクビだと言うのならそれでも僕は構わない、会社にとって僕がそうであるように、僕にとっても会社なんて生きていく為の手段の一部にしか過ぎないのだから。そして気が付くとコンピューターの画面にはYESと言う文字で埋め尽くされていた。本当に今度こそ僕はそのYESに胸を張れた。そして僕は最後にI LOVE SACHIKOと打ってコンピューターの電源を消した。

 画面の消えたディスプレーは今までの256色の色鮮やかな世界とは違って独りぼっちの僕を暗闇の中に映し出していた。けれど僕にはハッキリ見えた。力強い画面いっぱいのYESと幸子の笑顔が。僕は机を離れて冷蔵庫からビールを一本取り出しそれを一口飲んだ。壁に掛かっている時計は二時を指そうとしている。僕はリビングのソファーに座って幸子と計画していた今回の旅行のパンフレットを眺めた。確か最終日の今夜は、僕らがあの撮影兼卒業旅行を兼ねて行った時に泊まったホテルに泊まっているはずだった。それは幸子と僕とで少しくらい料金が高くなっても構わないから絶対に泊まりたいと、旅行業者に頼んでまで予約を取った僕らの思い出のホテルだった。そして僕はその思い出のホテルでまさにあの僕が書いたシナリオの様に伝えたい事があった。けれど現実はどこかの映画のシナリオの様に行かず、大して面識も義理も無い四月から配属になったばかりの上司の「頼む!」と言う一言だけで崩れ去ってしまったんだ。今考えると無性に腹が立ってくる、僕はビールの残りを一気に飲み干した。

 もしも僕がスーパーマンだったとしたら今すぐ空を飛んで彼女の元に行き、シナリオの続きをしたいくらいだった。けれどそれは無理な話だ、僕は車でさえろくに道を覚えずに迷ってしまう、こんな方向音痴な僕が一体沖縄のそれも一度しか行った事の無いホテルに飛んでいくことなんて不可能に等しかったし、そもそも僕はスーパーマンでは無い。電話も考えた、一応パンフレットと旅行会社から送られてきた日程表にはホテルの電話番号は書いてあったから電話を掛けることは可能だった。けれど時間が悪い、夜中の二時を過ぎていてもしも仮に幸子が気持ちよく眠っていたとしよう、そんな時に夜中の二時の電話で起こされたら伝えたいことだけじゃなく、せっかく仲直りをしたいのにますます幸子の機嫌が悪くなる可能性だって十分考えられる。僕はあきらめて明日の帰りの飛行機を羽田空港で忠犬ハチ公の様に待ち続け、素直に謝ってまた旅行の機会を作ってもらうしか方法は無かった。だから仕方なく僕は今夜は眠ることにした。勿論眠れる保証なんて何一つ無かったけれど。
そして僕がベッドに入って三十分位たった頃だろうか、僕の部屋の電話が突然鳴りだしたのは。 
僕は慌てて飛び起きて電話に出た。

「もしもし岡本です!」
「・・・・」
 相手は無言だった。
「もしもし」
 僕はもう一度その無言さんに話しかけてみた。
「あ、あのわ・た・し・・・」
 その声は確かに僕が今世界で、いや全宇宙の中で一番聞きたかった幸子の声だった。
「幸子か?」
「うん・・・。起こしちゃったかな?」

「ううん、起きてたよ。いや起きてたどころか、丁度僕も今君のことを考えていたんだ。本当に今回の旅行一緒に行けなくて君に可哀想な想いさせちゃったなって。本当にごめんな。勿論謝ったって許してくれないかもしれないけれど、今回の事で君の楽しみにしていた気持ちが痛いほど分かって、だから・・」

「ううん、私こそ岡本君だってあんなに楽しみにしていたのに、急な仕事で行けなくなったんだから悲しいのはむしろ私なんかより岡本君の方だったのに、それなのに私空港であんな別れ方をしちゃって、私の方こそごめんなさい」

幸子の声には反省と素直さとほんの少しの優しさがあった。

「いやそんな事ないよ。今思えば急な仕事なんて断ったってよかったんだ。それなのに君に甘えてばかりいて、本当に大切なモノを見失いそうになっていたんだ」
「なんだか、あの最後の自主映画のセリフに似ているみたい」
「うん、そうかもしれないね」
 確かにそうなのかもしれない、あのセリフを考えてから僕には三年と言う歳月が流れたけれど、きっと気持ちという時は何一つ前進なんてしていなかったのかもしれない。
「ねえ、覚えている? 私たちのファーストキスの場所」
 幸子は僕に言った。
「ああ、ちゃんと覚えているよ。ロングビーチホテルの304号室の海の見えるちょっと広めの白いバルコニーだろ」

 それは僕の胸に今でも焼き付いていた。あの日僕らは海の見える海岸で恋人になった。そしてその夜最後の宴会の時、僕は酔っぱらった勢いで思わずみんなにその事を言ってしまったんだ。幸子は少し恥ずかしそうにしていたけれど、みんなはとても歓迎してくれたし、僕もとっても最高の気持ちだった。そして後輩達の配慮で幸子と同室だった女の子がその夜だけ僕と部屋を交換してもらったんだ、そしてその部屋が304号室だった。勿論恋人になったと言っても友達、仲間、と言う関係が長かったせいだろうか、僕らはみんなが期待する様なベタベタも無いし、ラブラブと言う惚気も無かった。どちらかと言うとまるで大金を渡されてもその意味、そしてその使い方の分からない子供の様に、その304号室は僕らにとって使い道の分からない空間だった。二人っきりの僕らはとりあえず思い出話にそのゆっくりと流れる時を費やした。楽しかった事、辛かった事、悲しかった事、そんな思い出の一つ一つが僕らの愛の軌跡だった。けれどやがて二人は言葉を失った、それは語り尽くした訳じゃ無いし、語ることに飽きた訳でも無い。ただ言葉より大切なモノに辿り着くだけの事だった。

 幸子は突然バルコニーに出ない? と僕に問い掛けた。僕もかなり酔っていたし、酔い冷ましをしたかったのでOKと言った。そして僕らは少し広めの真っ白なバルコニー出た。 そこから見えるものは永遠と続くまだ暗い海と、それを彩る満点の星空だけだった。その光景はまるでこれからの僕らの様に期待と不安さが備わっている様な気がした。そして聞こえて来るものはただ程良く聞こえる波の音だけだった。幸子は波の音に耳を澄まし、そしてきらびやかに輝く星空を見上げていた。僕はその光景を今でもしかっり覚えていた。波の音に耳を澄まし夜空をただ純粋な幸せだけを願って眺めている幸子の横顔を。それは僕が今まで見たどんなモノよりも美しく、愛おしかった。そして僕は思わずそんな幸子の横顔に口付けをした。それが僕らのファーストキスだった。
僕は電話を耳に当てたまま目を瞑ってもう一度幸子に言った。

「ちゃんと覚えているよ」
「ねえ本当偶然ってあるモノよ」
幸子の声は少しづつ嬉しそうな声に変わっていく。
「えっ、なにが?」
「ほら、今回の旅行のホテルは思い出のホテルって決めていたわよね」
「確かにそうだね」
「で、私今どの部屋から電話を掛けていると思う」
「まさか304号室?」
「そうなのよ。私もホテルをチェックインする時にビックリしちゃったの。まさかあの時の部屋に偶然泊まれるなんて」
幸子の声は嬉しさの頂点に達した様だった。
「本当に? それは凄くラッキーだったね。けれどそうなると尚更今回の旅行に一緒に行ってあげられなかった僕はアンラッキーなのかもしれないのかな」
「ううん、そんな事無いわよ。きっと二度あることは三度あるって言うからまた今度来た時は岡本君と泊まれるわよ」
「そうだね、じゃあ今度の時は何があっても絶対にキャンセルしないよ」
僕は幸子の嬉しそうな笑顔を想像すると、あのコンピューター画面のYESに自信が持てた。
「ねえ、波の音聞きたくない? さすがにこの満点の星空は見せてあげられないけれど、波の音なら聞かせてあげられそうなの」
僕は勿論うんと頷いた。そしてしばらくして何やらリズミカルな音が聞こえてきた。
「ガーゴー、ガーゴー・・・・・・」
「・・・・・・・」
「ねえ聞こえた?」
 幸子はいたずらっぽく言う。

「・・・・僕にはどうしても絵里のいびきにしか聞こえないんだけど」
「あっわかちゃった。ごめんなさい、今度こそちゃんと波の音聞かせてあげるね」
 幸子はそう言って受話器をテーブルに置いた。きっと電話の配線を延ばす為だろう、幸子が一生懸命よいしょ、よいしょとベットを動かす音が受話器から微かに聞こえてきた。僕はその光景を想像するだけで二度と忘れたくない何かを確実にその受話器から受け取った様な気がした。
 それから二、三分した頃だろうか、受話器の向こうには幸子が戻ってきた、今度は本物の波の音を連れて。
「ねえ、耳を澄ましてよおく聞いてね、そうしないと聞こえないから」
僕は幸子に言われるままに目を瞑って耳を澄ましてみた。握りしめた受話器の向こうからは穏やかな風の音、そしてその向こうからは確かにザーザーと言う微かな波の音が聞こえて来た。
「ねえ、聞こえた?」

 幸子は満足そうに僕に問い掛ける。
「ああちゃんと聞こえるよ。何だか本当に懐かしい音だね」
「そうね、私もこの部屋に来てからずっとあの頃の事を考えていたの。なんだか最近私達色々忙しかったから色々な事を忘れかけていたけれど、あの時感じた想いは本当に確かなモノだったんじゃないかしらってね。ホント今になってあの最後のセリフの意味が分かった気がしたの」

 確かに幸子の言う通りだった。それはシナリオを書いた僕でさえ、想像の世界の話しで現実的なモノでは無かった。けれど今この場所で主人公と同じ立場に立つとそれは不透明なおとぎ話では無く、リアルな現実という確かなモノだった。

「なあ幸子、こんな電話越しで言う事じゃないし、こんな状況だから衝動的に伝えたくなった訳でも無いんだけど、君に言いたい事があるんだ」

 僕は本当に衝動的や突発的では無く、今までずっと思ってきたもの、そして本当ならこの旅行で幸子の目を見て言いたいことが本当にあった。 

「なあに?」

 幸子は実際僕の目には見えないけれど、きっとあの時の横顔の様に純粋に幸せだけを願って僕に問い掛けているのが僕には分かった。
 僕はもう一度だけ目を瞑り、幸子の電話口から伝わる優しさ、そして微かに聞こえる波の音に耳を澄まし、そして深呼吸を一回だけして幸子に言った。

「僕と結婚しよう」

 幸子は突然のその言葉に驚いていたのか、それともその言葉をずっと待ち続けていたのか僕には分からなかった。そしてそれは永遠に分からないものだった。
「えっ、波の音がうるさいのかな、それとも電話の線が調子悪いのかな、良く聞こえなかったわ。だからそれは帰ってからちゃんと私の耳元でもう一度聞かせてくれる?」

「ああ、そうだね。僕もちゃんと君の目を見て言いたいからね。ただ今もとても君に伝えたかったから」
「ありがとう」

 幸子はそう言った。そして少し安心したのだろうか、そろそろ私も眠らないと明日は最後の日だから絵里と朝早くから海で泳ぐ約束をしているのだから電話もう切るね、と言って僕らは電話を切った。そしてそれが僕が聞いた幸子の最後の声だった。

 幸子が死んだのはその日の午前中の事だった。夜中はあんなに穏やかだった風が朝に成るとかなりの風に変わっていた。幸子と絵里は波が高かったので仕方なく浜辺で体を灼く事にして灼いていたのだけれど、突然大きな波が来て海辺で遊んでいた子供が波にさらわれたらしかった。それを正義感の強かった幸子が助けに海に入ったんだけれど、普段なら泳ぎの上手い幸子が溺れる事なんて無かったのだろが、前の日に殆ど眠っていなかった幸子の体力はきっと自分が思っていた以上に、いやそんな事も考えずにただ助けたいと言う気持ちだけで飛び込んだのだろう。けれど結局幸子はそのまま波に揉まれてしまった、子供の方は体重が軽かったせいもあり波に乗って何とか海岸近くに辿り着いたところを無事に保護されたらしかったが、幸子の場合は波に揉まれている間にどこかの海底の岩に頭を強く打った事が大きな原因で救助された時には殆ど瀕死の状態だったらしかった。そして救急車で病院に運ばれている途中で息を引き取った。
 僕はその連絡を絵里から聞いた時はあまりにも突然の現実に、一体何がどうなっているのか分からない状態だったが、幸子の遺体を見、そして葬儀を経てそれが現実のモノと言う様に少しずつ受け止ることが出来た。そして一年が過ぎて初めて絶望という悲しみを理解した。

 幸子が死んでから初めてのゴールデンウイーク、そして幸子の命日、そしてそれは僕が幸子に結婚と言う永遠の愛を誓った記念日でもあった。
僕は幸子との思い出のホテル、そして思い出の部屋304号室を予約して、今その日にこの304号室に居た。家から持ってきたものはちょっとした旅行セットと幸子の写真、そして映写機と一本のつなぎ目だらけのフィルムだけだった。
僕はその映写機を部屋の中にセットして、目の前の白い壁にそのつなぎ目だらけのフィルムを映し出した。そしてそのフィルムは幸子のNG集だった。
白い壁、そして僕の心の中には色々な幸子が現れた。NGを出して両手を合わせてごめんをする幸子、泣くシーンで思わず吹き出してしまう幸子、そして僕が一番好きな片目を瞑って舌をちょこんと出して照れ笑いをする幸子、本当に色々な幸子がそこには居た。けれどどの幸子も僕の心の中にはいつまでもあの時と変わらない輝きがあった。僕は溢れて出て来る涙を拭きながら僕の横で一緒に見ている幸子の写真を見た。写真の中の幸子は自分のNGばかり写っているので怒っているのかもしれないし、もしかしたら恥ずかしさのあまり真っ赤な顔をしているのかもしれなかった。それは僕には分からなかったが、ただ一つ分かることは写真の中の幸子が幸せそうに笑っていることだけだった。

 フィルムが終わるとカタンカタンとフィルムの端が機械当たる音とザーザーと言う波の音だけに包まれる。そうなると僕は例えようの無い虚しさに襲われる。幸子が死んでから僕はいつもそんな事の繰り返しの中にいた。けれどそんな暮らしも今日で終わらなくてはいけない。いつまでも思い出と悲しみの中に閉じこもっていてはいけない、きっと天国の幸子だってそう思っているに違いが無いのだから。
僕はもうすぐ27になる。けれど27になる前にやっておかなければならないことがあった。
僕は機械を止めてあらかじめレンタルしておいたあの時と同じ真っ赤なオープンカーで僕が初めて幸子に愛を告白した海岸に向かった。
夜中の風はとても暖かいとは言えなかったが、薄手のジャンパーは助手席に座っているはずの幸子の為に、助手席のシートに掛けたままで僕は海岸に向かった。海岸に着くと日の出が始まりかけているのだろう、海の向こうの空が紫色に染まり始めていた。僕は助手席に置いてあった幸子の写真を持って車を降りて砂浜に向かった。そして波打ち際まで来て僕は写真を横に置いて座り込んだ。それから三十分位だろうか、僕は写真の中の幸子と会話をした。

「なあ幸子、君は僕と出会って本当に幸せだったのかい?」
幸子は黙って頷く。
「なあ幸子、僕は君の死を悲しみとして受け止めているだけじゃダメなんだよね。僕がもし君と出会って幸せだったと言うことを君に伝えるとするなら、きっともっと強く成らないといけないんだよね」 
幸子は強く頷く。
「そうだよな。僕は生きているんだもんな。君との思い出を引きずっているんじゃなくて、それを生きる糧にしなきゃいけないんだよな」
幸子は更に強く頷く。
「なあ幸子、今だから話すけれど僕はあの最後の電話の日に実は迷っていた事があったんだ。それは僕は本当に君を誰よりも何よりも大切に想っていたのかって事なんだけど、いま今日ここでハッキリさせたいんだ」
幸子は不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「なあ、僕にもう一度聞いてくれないか? 私のこと大切にしてくれますかって」
幸子は一瞬間を置いて、僕の顔を見てから言った。
「ワタシノコト、タイセツニシテクレマスカ?」
僕はその言葉に今までのどんな時よりも力強く、そして胸を張って答えた。
「はい、誰よりも何よりも大切にします」

 そして僕はYESと大きく、そして力強く砂浜に書いた。そして幸子の写真を優しく抱き締めた。
その間幾つかの波がYESと言う文字を洗い流したけれど、その文字はいつまでも永遠と消える事は無かった。そして海の向こうから太陽の光が優しく射し始め、そんな僕らを優しく包み込んだ。その時一瞬だったけれど波と波との間に幸子の「私は本当に幸せだったよ」と言う声が確かに僕には聞こえた様な気がした。

 -- 大切なモノ、それは失って始めて気が付くことが多い。けれど失って始めて本当に大切なモノを手に出来るのかもしれないね。きっと僕らは弱い生き物だからこの寄せてはかえす波の様に、そんな事を繰り返して生きているのかもしれないね。永遠の愛と言う名の幸せを求めて・・・・ --