年数 | 自分の出来事 | 主な出来事 | 社会の変化 |
1971 | 7月1日に目黒区内の東京共済病院にてこの世に誕生した | ドルショック(1ドル308円) | 第二次ベビーブーム、ジーンズ流行、長髪全盛 |
1972 | 三軒茶屋の社宅から上野毛に引っ越す | 沖縄復帰、列島改造ブーム | ホットパンツ流行 |
1973 | 殆ど記憶が無いが断片的には幾つかの記憶が残る | 第1次オイルショック | トイレットペーパーパニック |
1974 | 東京都世田谷区の上野毛の社宅から横浜市の当時は緑区(現在は青葉区)の市が尾に引っ越す | ベトナム戦争終戦 | 長島茂雄巨人引退、モナリザ公開 |
1975 | 4月、市が尾幼稚園入園 | 沖縄海洋博 | 紅茶キノコブーム |
1976 | 子供の火遊びが原因で放火事件発生、犯人は自分では無いが親ですら信じてもらえず、この頃から自分の殻を持ち始める | ロッキード疑惑 | 「およげたいやきくん」」「アグネスラム」大人気 |
1977 | 隣町の荏田に米軍の戦闘機が墜落する瞬間を見てしまい飛行機が落ちると言うトラウマが出来た | ||
3月、市が尾幼稚園卒園 | ピンクレディー人気 | ||
4月谷本小学校に入学(入学して二日目に集団登校から逃げ出し遅刻し廊下に立たされた) | |||
1978 | 4月、市が尾小学校が設立され転入 | ||
幼なじみの初恋の女の子が交通事故で死去 | 新東京国際空港開発 | ディスコブーム、羽毛ジャケット流行 | |
この頃から孤独になり空想癖を持ち、詩の原型を書き始める | |||
1979 | 自閉症気味になり友達も居なかった(当時は俗に言う鍵っ子だった) | 第2次オイルショック | ウォークマン登場、インベーダーゲーム流行 |
1980 | カンボジアの難民達に寄付と作文を送り、財団から感謝状を貰う(世界平和を心から祈っていた) | イラン・イラク戦争 | 竹の子族ファッション |
1981 | この年の四月から憎き担任白崎により第一次人生最悪時代が2年間始まった | レーガン大統領就任 | |
生意気な態度と言う理由で始めて人からナイフを突きつけられた | |||
1982 | 桐蔭学園への入試を担任によって阻止された(内申書を書いてもらえなかった) | 英・アルゼンチンのフォークランド紛争 | 「エアロビクスダンス」「白黒ファッション」人気 |
1983 | 3月、市が尾小学校卒業 | アキノ氏暗殺(比) | 東京ディズニーランド開園、NHK「おしん」人気 |
4月、もえぎ野中学校入学 | |||
1984 | 白崎を潰す会結束(一日にて解散) | アフリカに大飢餓 | グリコ・森永事件 |
1985 | この頃から本格的に散文詩や歌詞を描く様に成る | 米ソ首脳会議(ジュネーブ) | 科学万博開催(茨城) |
初めて警察に補導された | |||
この年の4月から恩師渡辺道郎氏が担任に成る、そして自分が大きく変わった年でもあった | |||
1986 | 3月、もえぎ野中学校卒業、 | チェルノブイリ原発事故 | |
4月、私立麻布大学付属淵野辺高等学校入学 | |||
この年の四月から村上が担任になり第二次最悪時代が1年間続く(ちなみ担任からの推薦で学級員長を務めた) | |||
パンクロックバンドのザ・ブルーハーツの曲に出会い、大きな声で主張する様に成った | |||
1987 | ロックバンドを結成するが1年で解散 | 国鉄分割民営化 | 俵万智「サラダ記念日」 |
1988 | この年の三月に(当時まだ16歳)初体験をし、一人の人間(大人)としての責任を自分なりに考え始めた | リクルート疑惑発覚 | 村上春樹「ノルウェイの森」 |
5月初体験の失恋の苦しさから手首をナイフで切り付け初めての自殺を図る(未遂で終わった) | |||
1989 | この年にアルバイト先で初めて一人目の天使に出会った(正確には再会した) | ||
3月、私立麻布大学付属淵野辺高等学校卒業 | 昭和天皇崩御、消費税スタート | 美空ひばり死去 | |
4月、株式会社ユニック入社 | |||
この頃に二人目の天使をブラウン管の中で見つける | |||
1990 | この頃初の私小説「I LOVE YOU」の原型を書き始める。 | 東西ドイツ統一 | 「ちびまるこちゃん」人気 |
この頃バンド再結成一年近く活動して方向性の違いで解散。 | |||
仲間と美愚会(美しく愚か者達の会)を結束。 | |||
1991 | 自分の気持ちとは関係なく成人と呼ばれ見えない責任を負わされた | ソビエト連邦消滅 | 宮沢りえ写真集話題となる |
1992 | 一月十五日の成人式の主旨に不満を感じてボイコットする。 | 東京佐川事件、金丸氏辞任 | 長島茂雄監督復帰、「冬彦さん」ブーム |
1993 | 色々な過ちを犯して来たような気がした | 皇太子御成婚、自民党政権崩壊 | Jリーグ人気 |
1994 | この時またしてもバンド結成、けれど年齢差等で半年位で自然消滅。 | 米の自由化 | テロ事件多発 |
1995 | 初めて独立生活(一人暮し)を生まれた時に住んでいた場所(世田谷区)と自由になりたくてと言う意味で(自由が丘)で始める | ||
「時には正義の様に…」を書き上げた | 阪神大震災 | オウム真理教事件 | |
1996 | 心の痛みや頭の痛みが増す | 薬害エイズで官学業トップ相次いで逮捕 | 「アムラー」ブーム |
手首を切り血だらけで風呂場で倒れている所を発見され救急車に運ばれ一命を取り止める | |||
1997 | 11月横浜市中区若葉町3−51−3ビクセル伊勢佐木602に引っ越す | ||
この頃から横浜のけいゆう病院の精神科に通いはじめる(病名は精神分裂病) | |||
12月20日初の長編私小説「I LOVE YOU」書き上がる、この時吟遊詩人に成る事を決意する | |||
1998 | 小説「確かなモノ」「時には勇気の様に」「波の中で見つけたモノ」「Letter」作成 | ||
12月20日正式に(自称)吟遊詩人に成った | |||
1999 | 3月31日株式会社ユニック退社 | 失業率戦後最悪を記録する | |
五月に中編小説「死を選んで…」を書き上げる | |||
職と名誉と地位等の全てを失い、人生究極の底辺時代が訪れる | |||
7月1日1999年遺書を書き始める | |||
11月にユニックに手伝いとしてアルバイトをし始める | |||
12月20日抗精神薬250錠飲み自殺を図る(もう少しで逝けたらしかったが救急車を呼ばれ胃洗浄を受け結局未遂に終わった) | |||
2000 | 4月に詩集を中心としたホームページを開設 | ||
6月聖マリアンナ病院に通おうとしたが遠まわしに受診拒否された | |||
7月12日に精神病院 国立療養所久里浜病院の閉鎖病棟に入院(始めての入院だった) | |||
12月20日ドラッグを大量に飲み自殺を図る(でも死ねなかった) | |||
2001 | 分裂病の病状が悪くなり昭和医大に通院したが医者も信じられなく病状は悪化する一方だった | ||
11月に自信を付ける為に大型免許を取るが仕事は出来ずユニックは辞めた | |||
2002 | 1月親の希望でホームスタッフに入社でも病状は悪化する一方だった。本当に苦しかった。 | ||
5月に最後の希望で武田病院に病院を変えた。それが良かったのか病状は軽くなり始めて行った | |||
10月親と喧嘩して家を出て3度目の一人暮らしを川崎市宮前区菅生3-44-10ちとせハイツA号室で始める | |||
11月保険会社(日新火災)から保険金目的の偽装事故を起こしたとして訴えられ被告となった(勿論無実の罪) | |||
12月10日保険会社に無実なのに訴えられ人間不信に陥り武田病院に入院(精神病院に入院するのは二度目だった) | |||
12月13日(金曜日)横浜地方裁判所で偽装事故容疑で告訴され裁判が行われた(勿論無実の罪) | |||
12月『時には愛の様に・・・・」書き上げる | |||
2003 | 1月11日武田病院を強制退院 | ||
2月15日薬を大量服薬しビルの屋上から飛び降りようとした所で一通のメールで思い直す(きっと最後の自殺未遂) | |||
2月「カズくんは決して一人じゃない」『負けないで}と言う言葉で二度と自殺はしないと心に誓う | |||
2月一人の女神への永遠の片想いを心に決め、そして自叙伝「Drop out(仮タイトル)」を書き上げる | |||
3月24日ホームページ上のプロバイダーとの契約がきれ、なんの告知も無く一時閉鎖 | |||
4月25日ホームページのURLをwish-happiness.com(幸せを願う)に変え、新しい第一歩を踏み出す | |||
6月20日全てのモノを置き去りにして現実逃避の旅に出る | |||
6月21日未明に警察に保護されその翌日精神病院に入院させられる | |||
6月22日新潟信愛病院に入院 | |||
6月30日ホームスタッフ退職 | |||
7月15日生まれて初めて自分が生まれた世田谷区太子堂5丁目19〜21に立って生まれ変る決意をした | |||
7月20日「あんたが何処でのたれ死のうが親はもう一切関知しない」と言われ口で親子の縁を切られた | |||
8月6日心の旅をする場所は北海道 | |||
9月親友的存在だった二人の友を失う | |||
10月ロシアに三ヶ月行く予定だったが、直前で心の病が悪化し始める | |||
10月6日武田病院に精神の静養の為二度目の入院をする(精神病院への入院は4回目だった) | |||
10月入院中に新しい第一歩的詩を7作品書き、完全に詩人やモノ書きとして生きて行く決意をした | |||
10月15日(退院した翌日)三十二年間分かち合うと努力して来た家族と決別し家族からたった一人で戸籍を抜いた | |||
10月22日か四泊五日で心の旅第二段in広島へ行く | |||
11月28日武田病院に3度目の入院をする(精神病院への入院は5度目) | |||
12月25日に永遠の片想いまでにもにフラれ、長生きをすると言う治療目的を見失い退院許可を申請 | |||
12月29日に武田病院を退院して心の旅第三段in長野の蓼科へ二泊三日の旅に出る | |||
12月31日多分生まれて初めて一人ぼっちの孤独な年越しをする | |||
2004 | 1月生きる目標や希望をまた見失った | ||
2月自傷行為や希死観念が酷くなる(理解ある周りや、医者から入院を勧められる) | |||
3月3日永遠の片想いだった子から久しぶりに電話が入り嬉しくなったが、嬉しさとは裏腹で内容は辛く苦しいモノだった。 | |||
3月6日武田病院に入院(精神病院への入院は6度目)本当に最後の入院にしたかった。 | |||
3月23日一人暮らしのアパートを引き払い、一時的に住所不定、無職、の肩書きになる。 | |||
4月に秋田県にある施設「自在館」に行くと言う話があったが、部屋の空きが出来ずに話しが流れてしまった。 | |||
4月横浜市西区にある親戚の家(父の実家だったのでお爺ちゃんやお婆ちゃんが生きていた頃よく遊びに行ってたので、 数少ない思い出のある場所)に居候をさせられる |
|||
5月表面上には病状は落ち着いて来たと公言してはいたが、本音はとっても苦しい状態だった | |||
6月に一人で生きて行くのに疲れ、とある方とお付き合いをする。(女性と正式にお付き合いしたのは本当に久しぶりの事だった) | |||
6月また、今度はへたばって倒れるまで走り続ける決意をした。 | |||
7月1日、ここまで生きられるかは思っても居なかったが、何とか33歳のバースデーを迎えた。 | |||
8月ハードなスケジュールをこなしていて、何度か目の胃潰瘍になる。ホント色々な意味で疲れてき始めいた。 | |||
8月6日〜8月10日まで心の旅(ちょっと違うかも知れないが・・・)仕事でロシアに行った。 | |||
9月この頃から神経熱が出始めていて、自律神経がきちっと働いていないと診断された。 | |||
10月2日親代わりの親戚の叔母がクモ膜下出血で倒れ緊急入院をした。原因が自分が心配を掛けているからと思い込む。 | |||
10月僕の無謀な生き方と病状の悪化が原因で、とある方とお別れすることになった。本当に謝り切れない程傷付けてしまった気がした。 | |||
11月2日自分のHPが皆様のお陰で2万件突破し、作者(僕の中では)として久々に嬉しい出来事だった。 | |||
11月空手道場に通い始める。理由は強くると言うより、何もかも自力でぶっ倒して来た自分を抑えされると言うある意味弱くする為。 | |||
12月神経熱が3ヶ月以上経っても未だ治らず、長野県にある「どんぐり向方(むかがた)塾」へ行って、転地療法をする決意をした。 | |||
12月18日時点でポエナビとことばcanのランキンクで゙両方とも1位になり2冠達成、ちなみに芸術系サイトも2位と言うとても嬉しい結果だった。 | |||
12月26日もう何度目か分からないけれど、また手首を切って、ERのお世話になる(ちなみ十針縫った) | |||
12月31日未明、奈良女児誘拐殺人の容疑で捕まった小林薫容疑者に怒りを覚え、どうしても自分の中で怒りを納めきれず、 色々な器物を破損させ、器物破損の罪人として自首したが、破損した物が他人の私有物で無かった為、捕まえてもらえなかった。 でも自分では罪人としての意識だけは残っていた。 |
|||
12月またある意味孤独な年越しをした。一年を振り返ってみて、まぁ毎年の事だけど、本当に今年は激動の一年だった気がした。 | |||
2005 | 1月5日長野にある施設、「どんぐり向方塾」に約3ヶ月間と言う目安で、研修生と言う立場で入塾した。(本当の目的は転地療養だった) | ||
1月23日まぁいつもの事だけど、矛盾したシステムや善人面した中野昌俊と言う偽善者な塾長に逆らい、強制退塾させられた。 建前上は「貴方の静養にはこの場所は合ってないと思う」なんて言う理由だけどね。 |
|||
1月もう完全に、そして完璧に死のうと考え始めていた。 でもそんなこんなどうしようもない僕に微かだったけど、希望と言う名の天使が舞い降りて来た。 |
|||
2月1日正式にHPのWISH−HAPPINESSのスタッフ兼専属モデルとしてM@kiさんが加入してくれた。 | |||
2月6日の夜親とまたしても大喧嘩をし何度目かの家出を結構した。 もう昨年の暮れ位から色々と実家出は荒れていた。ホントにある意味路頭に迷う。 |
|||
2月26日4度目(場所的に)の一人暮らしを横浜市青葉区の青葉台で2Kの部屋でする。 理由は心の行き場所が何処にも無かったから仕方なくと言うモノだった。 |
|||
3月7日また致死量並みのOD(薬の大量摂取)したが、理由が死にたいと言うよりは少しでも良いからゆっくり休みたいと言う理由だった為、 変な悪夢とか観なかったが、足に負傷を負った。 |
|||
3月14日HP名「堕天使のレクイエム」として最後の更新をした。 | |||
3月18日精神障害者3級の手帳を受け取る。けれど障害者だから特別な待遇をと言うより、例え精神障害(心の病)を持って居たって、 頑張ればここまで伸し上がれるんだよって言う希望に成りたかった。 |
|||
3月16日精神病院の担当医、名誉院長の武田専氏から自分の正式な心の病の病名がボーダー(境界例)と診断された。 ある意味今まで、精神分裂症から統合失調症になり、でも一番長く診て頂いて、 心の信頼関係も出来ている名誉院長の診断なので、これが本当の病名だと思えた。 |
|||
3月22日自分の中での画期的作品を作る為に、素手でキーボードを叩き割った。 | |||
3月31日HP名「堕天使のレクイエム」を卒業した。 | |||
4月1日新HP名「WISH−HAPPINESS」として、本当の意味での新しい第一歩をまた踏み出した。 | |||
4月17日グッド・ウィルでモバイトをし始める。 | |||
4月20日に、三井住友銀行に口座を作った。 何れはそれを活動費やNPO団体へのきっかけ作り成れば良いと思い、少しずつまた貯金をし始める・ |
|||
4月からモバイトのお陰で人脈がまたドンドン広がっていった。そして自分のスケジュールに合わせ仕事が出来、 それでいて色々な経験が出来て、良いモバイトになってる。 |
|||
モバイトを始めてから、体脂肪計がエラーになるほど、体脂肪が下がった。けれど筋力は上がって行った。 | |||
5月31日未明、実の母が原因不明の出血で緊急入院をする。(後にストレスから来る直腸からの出血と診断され、 また自分が心配を掛け過ぎていると自分を責めるようになる) |
|||
6月15日〜17日まで心の旅(一人旅)で京都へ行く | |||
7月1日34回目のバースデイと共に臓器提供者のドナー登録する | |||
7月14日のモバイトの現場で肋骨を強打し、全治3週間の打撲と診断される。 それでも物凄くあばらが傷んだが二日間はきつい現場に入り。それから約3週間の休養を余儀なくされた。 |
|||
8月12日3ヶ月経たずに二度目の駐車禁止をしてしまい。免停リーチになってしまった。ちなみに免停を今度受ければ二度目なので、 最低でも60日か90日になるだろう。 |
|||
10月3日モバイトの登録支店初のランクアップ者になった。 | |||
11月10日医者との話し合いで、 アーティストとしても、斉藤和彦と言う一人の人間としても、人生の行き詰まりを感じ、もう一度原点に戻ろうと決意する。 |
|||
12月12日来年2006から新たな気持ちと新たな体でスタートを切りたいが為に初めての人間ドッグを受ける。 | |||
12月31日またしても虚しい年越しとなった。ただ12月は殆ど休まずにモバイトのお仕事こなし、25回以上現場を踏み、MVP賞を取った。 | |||
12月暮れに殆ど毎日行って居た現場から引き抜きの話が出て、 自分の中では来年(2006年)はモバイトをベースの仕事から違うモノに変えたいと言う事もあり、承諾をした。 |
|||
2006 | 1月14日2泊3日で一人でのお忍び旅行(自分探しに)、京都に行く。 | ||
1月21日暮れに受けた人間ドッグの結果、貧血気味と、肥満度が−22%で標準値の±10%を下回ったと言う結果が出た。 | |||
2月1日付けで晴れて正式に契約社員となりとある運送会社に勤める事になった。 | |||
2月25日やっと仕事に慣れ始めて来た所で、原付で怪我を伴う人身交通事故に遭い(僕は被害者の方ですが)、全治20日間の怪我をした。 | |||
3月6日今までの愛車(原付)は事故で完全にクラッシュしてしまった為、違う原付に載りかえを余儀なくされた | |||
3月14日前に2年間くらい勤めていた会社の社長(堀内氏)が癌の為に死去され。 噂では最期まで僕の行く末のコトを心配してくれていたらしかった。 |
|||
3月19日人身事故の怪我から直り、万全の状態で仕事に復帰した。 | |||
5月4日の夜中の2時半にERに運ばれる。病名(副睾丸炎)。 仕事でトイレを我慢していたコトが原因らしかった。でも当日も医者の助言を無視して仕事場に向かった。 |
|||
5月21日今までの愛用のPC(VAIO)がクラッシュしてしまった。 | |||
5月23日愛用のVAIOのクラッシュで急遽富士通のFMVを購入し、初めてFMV(富士通)ユーザーになった。 | |||
6月3日初めて自分がモデルのビジュアル作品の撮影を行った。 | |||
6月6日近所の幼馴染の友達のお父さん(子供の頃お世話になったオジサン)が階段からの転落事故で亡くなった。 | |||
6月半年前くらいから産まれて初めて自分と同じ誕生日の一回り(12歳)年下の女の子とお付き合いをしていたが、 二人が同時(同じ7月1日)の誕生日を迎える前に破局してしまった。 |
|||
7月1日にたった一人での35歳のバースデイを迎える。けれどまさかここまで生きられるとは思って居なかった。 | |||
7月でもこの頃から人生の行き詰まりを感じていた。きっと真剣に死ぬ気で居た。 | |||
7月8日武田病院(精神病院)の閉鎖病棟に緊急避難入院をした | |||
7月11日担当医との治療目的の食い違いで閉鎖病棟から自ら退院した。 | |||
7月14日診断書に約一ヶ月程度の自宅静養が必要と書かれ、契約社員だった会社から休養を貰い静養生活に入った。 | |||
7月けれど経済面、一人暮らしと言う生活面、それと精神面で、不眠、食欲不振が続き、中々な思い通りに静養が行えないジレンマを感じていた。 | |||
8月21日医者からはまだ静養が必要と言われたが、自宅静養が上手く出来ずに仕事復帰をする | |||
9月何度か目の胃潰瘍になりかける | |||
9月21日短編小説「失った過去」を書き上げる | |||
10月11月忍耐力を付ける為に、色々な細かな病状や生きる意味等をとりあえず深く考えないようにした。 | |||
12月9日HPスタッフでの初の忘年会を開き、本当に色々な人達に支えられてここまで来れたんだなぁと感謝、感謝と強く思った。 | |||
12月心の病での細かい症状は出続けてますが、数ヶ月の忍耐力作りお陰で精神的にはかなり落ち着けるようになった。 | |||